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仕事ができなくても、礼儀正しいだけで十分なことはある

礼儀正しいことというのは、それだけで強い武器になることがあると感じます。武器になるというよりは、損をしないという感覚です。

他の人が礼儀正しくないふるまいをすることで損をすると、相対的に自分の評価が上がるはずだからです。

礼儀正しくない振る舞いというのは、無礼なふるまいということです。無礼とは礼を失しています。相手に対する敬意が無いため、相手としては不快に思うこともあるかもしれません。

個人的には無礼な人と接する機会は極力少なくしておいた方が、精神衛生上、良いと考えています。

もちろん、そう言っていることのできない場合があるため、そのような場合はとにかく笑顔で乗り切る、一緒に同調しないことを意識しています。

たしかに、無礼なふるまいをしたくなるほど、無礼な人に出くわすこともあります。そのようなとき、不機嫌になって礼を失してしまうと、結果としてどっちもどっちになってしまいます。

同じくらいに無礼な人たちという枠組みにカテゴリーされてしまいます。

一緒になって、無礼なふるまいをしてしまうというのは、その人と同じレベルで物事を考えるということです。

無礼というのは、相手に対する敬意が無いということなので、同じレベルで物事を考えてはいけません。

もう少し相手に対する敬意を払わなければいけません。

なぜ無礼ではいけないのかということについて考えてみると、もちろん、相手に対して敬意を払って、無礼でない方が良いはずです。

しかし、相手に対して敬意を払って、礼儀正しくするということは、コストがかかることです。無礼というのは雑に扱うことに近い意味を持つため、雑に扱うことにより、相手にかける時間を節約することができるのです。

その時間を節約してまで、コストを抑える意味があるのかとは感じますが、一時の感情で雑に扱うことに逃げてしまうことがあるのです。

このように考えると、相手に対して敬意を払うことは、大変なことなのかもしれません。

もし、職場などで無礼な人がいたとしても、その無礼な人を咎めるよりは、仕事で結果だけを出すことができていれば、それで十分なのかもしれません。

ただし、仕事で結果を出すということは、ひとりでできることではありません。周囲にいる多くの人を巻き込んで、自分の結果につながっているはずです。

この世の中に存在するほとんどの仕事は、ひとりでできません。誰かの力を借りながらやっていることです。

そのため、ひとりで結果を出しているとうぬぼれない限りは、相手に対して敬意を払うことは、最低限のマナーであると感じます。

必要なコストだということです。もしかすると、コストという考え方自体が良くないのかもしれません。人として社会で生きていくためには、礼儀正しいということが必須である可能性が高いということです。

そもそも無礼であることにより、他人を不快な気持ちにさせてしまったり、雑な対応で相手に迷惑をかけてしまったりする場合があります。

これらは、相手の時間を奪うことです。自覚して無礼に振る舞っているのであれば、それは改めた方が良いと感じますが。

もし、無自覚に無礼なふるまいをしているのであれば、それは、無意識に他人の時間を奪っているということです。

他人の時間を奪うというのは、かなり重い罪ではないかと感じます。

あまり良くない例かもしれませんが、多くの国では悪いことをすると牢屋に入れられます。牢屋に入れられると、自由を奪われるのと同時に、時間も奪われるのです。

悪いことをして、罪が重くなればなるほど、牢屋に入れられる時間が長くなります。

国の権力として、時間を奪えるので、それ自体は人としてかなり重い罪なのではないかと感じます。

これらのことを突き詰めると、周囲に悪影響を与えてしまうということです。礼儀正しくないということだけで、周囲に悪影響を与えてしまうのであれば、礼儀正しい方が良いに決まっています。

場合によるのかもしれませんが、これは言い切っても良いと感じます。

反対に、礼儀正しい方が良い理由は、周囲に人が集まってくるからです。誰でも、礼儀正しくない人よりも、礼儀正しい人の方が好きです。

そのため、礼儀正しい人の周囲に人は集まりがちです。

周囲に人が集まるメリットとしては、頭が良くなります。周囲に人が集まると、それだけたくさんの情報が入ってくることになります。

結果として、礼儀正しい人は頭が良くなるのです。

他には、仕事が得るチャンスが増えるとか、幅広い人脈が広がるとか、出世の可能性が高まるとか、色々と考えることができます。

少し話は戻りますが、無礼であったとしても、仕事で結果を出していれば良いという考え方は理解できます。

しかし、仕事で結果を出すことだけでなく、無礼であることも、簡単に情報が広まってしまいます。

特に、インターネットが普及してから、情報のスピードは格段に速くなったはずです。どんな手段を使っても、結果を出せば良いというのは、マキャベリズムにも似ています。

映画に出てくる悪役のように、目的のためには手段を選ばないような人は、なかなか生きにくい世の中になってしまったのではないかと感じます。

もちろん、権謀術数を駆使して、とにかく結果を出すために、誰かを蹴落としたり、策略を練ったりすることは、ときには必要かもしれません。

しかし、無礼なふるまいをすることで、わざわざ嫌な奴になる必要は無いということです。

目的のために手段を選ばなかったとしても、礼儀正しくふるまう余地があるのであれば、長期的に考えると、礼儀正しくふるまう方が、自分にとってメリットが多いように感じます。

これは、誰かとコミュニケーションをとるなど、人間関係が必須の社会に生きていると必須です。

だからこそ、無礼に無礼で返すのは悪手なのです。

相手とは争わずに、別の次元にいた方が良いのです。仲間を増やすことよりも、敵を作らないことの方が先です。

いくら仲間を増やしたとしても、その分だけ敵を作ってしまうと、自分の求心力のようなものはあまり変わらないか、むしろ小さくなってしまうこともあるのです。

ただ、礼儀正しくふるまえと言われたところで、具体的に何をすればよいかというのは、意外とイメージしにくいかもしれません。

実際にどのように振る舞えば良いかなど誰にも分からないのです。

おそらく、答えは意外とシンプルで、他人に好かれるためには何をすればよいのかということを考えれば良いのではないかと感じます。

例えば、笑顔を絶やさないとか、相手を尊重するとか、人の話に耳を傾けるとかです。

これは、他人に好かれるというよりは、嫌われる人の逆を考えた結論です。笑顔が無い人、相手を尊重しない人、人の話に耳を傾けない人というのは、おそらく単純に嫌われます。

そして、もう少し踏み込むのであれば、何を与えることができるかを考えてみると良いと思います。自分の身を滅ぼさない程度に、何を与えるのかを考えるということです。

簡単なことで、自分にできることで良いはずです。自分が持っている能力や成果を共有するとか、相手の良い所を褒めるとか、上手にフィードバックするなどです。

少しだけ相手のことを考えて、相手に何かを与えるのです。

礼儀正しくふるまうというのは、人が社会で生きていく上で身に着けた能力だと感じます。文化や常識などのように、少し古い考え方なのかもしれません。ただ、それが軽視されているときだからこそ、取り入れることのメリットは大きいのではないかと感じます。

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