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境界、家という結界。ナメクジと蟻・カマキリの死を通して。

害虫を除いては、極力その命を奪わないよう過ごしている。

しかし、昨日から3回も殺している。うち2回はそのつもりもなく命を奪ってしまった。

まずナメクジ。この4日間で我が家の屋内において3回もナメクジが出没した。出没スポットはいずれもシンク。一度目はシンクでじっとしているのを捕まえて外に逃がし、二度目は排水口カップの上で縮こまっているのを捕まえてやはり外に逃がした。三度目が昨日だった。どこから侵入しているのだろう。驚きはしたが、昼食を作っている最中で忙しく、後で外に逃がそうと思って放置していた。

料理がひと段落し、調理道具を洗ったついでにタワシでシンクを磨いた。ナメクジの存在は完全に忘れていた。勢いよくシンクの壁を横断したタワシが、ナメクジをごくスムーズに轢いたのである。轢くという表現がふさわしかった。タワシの剛毛はトゲとなってナメクジを刺し、ナメクジは触角のある先端の側からつぶれて、体と同じ色味の房状の突起を体の内側から放出させた。

この柔らかい生き物が、危機に瀕して一時的に体の形を変えたのかと思った。突起をむき出した姿を変形と捉え、死んだとは判断しなかったのである。が、タワシの先に付着した物体を数秒見つめるうちに、もはや生物ではないと判断してそのままゴミ箱に捨てた。

この思わぬ殺生に私は愉快ではなかった。子ども時分にナメクジに塩をかけて溶かす実験をしたのと同じことだと思ってやり過ごすことにした。タワシは丁寧に洗った。ナメクジが這ったシンクはぬめり気を残していた。先ほどまで存在した生命の証しである。

2回目は蟻だ。ナメクジを殺した直後だった。縁側に落ちていた白っぽい小さな蛾の死体に小さな蟻が群がっていた。幼い子どもへの影響を懸念してめったに殺虫剤を使わないのだが、今回ばかりは殺虫剤の出番だった。縁側から網戸の桟にかけて続く蟻の列にひととおり吹きかけて、掃除機で吸い取って完了。

3回目が今朝だ。縁側でカマキリが死んでいるのを発見した。ひしゃげて薄くなった体と、もげた足から、誰かに踏みつぶされたのは一目瞭然だった。たぶん私が気づかずに踏んだのだろうと思う。いつのことなのかはわからない。チラシで挟んで、ナメクジを捨てたのと同じゴミ箱に捨てた。ティッシュでなくチラシを使ったのは、死んだカマキリの体の触感を味わうのが嫌で、少しでも厚みのあるもので処理したかったからだ。蛙やイモリ・ヤモリを除いて小さい動物に触れるのがわりと平気な私だが、死体はまた別だ。カマキリの足は細くて、何も知らなければ、硬さのある草と思って素手で掴んでゴミ箱まで運んだに違いなかった。

アパートから庭付きの戸建てに引っ越して来て、生き物が身近になった。生き物を過剰に排除したくないと思ってきたし、うまく共存していきたいと願ってきた。だが、線引きだけはきっちりしなければならないと3つの死を見て思う(蟻100匹も1つとカウントする)。ナメクジにしろ蟻にしろカマキリにしろ、家の中に無防備に受け入れて良いものではないのだ。生き物の命を大切にするのとテリトリーを曖昧にするのとは別の話だ。人間は「ここからは私のテリトリーです」としっかり主張していい。人間の家というのは結界の性格があるのだから。

人間が自然環境を破壊していることをもって、「人間は地球上一番醜い生き物だ」という類の表現をしたがる人がいるけれど、私は好きではない。理由のひとつが、身もふたもない表現のしかたに思えること。次に、自己陶酔が過ぎる印象を受けること。そして何より、「人間は地球上で最上位にある、もっとも価値の高い生き物です」という主張の裏返しに見えること。自然環境は大切にしたいけれど、自己愛が過ぎない程度に人間は自分自身を大切にしたほうがいい。

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