見出し画像

朝の、金色の、

時刻は六時を少し回った頃、私は足元の鞄に手を伸ばして携帯のアラームを止めた。
上体を起こしたまま覚醒しない意識で周囲を見回す。窓の外は、早い時間特有の清潔さはあっても未だ薄闇にけぶっていた。
つわものどもが夢の跡、と、祭りの残骸がそこらに落ちている。大学の友人カップルが眠るソファーベッドと客人用の布団がL字型に敷かれ、辺には食べかけのチップスの袋やらビールの空き瓶やらがごろごろと散乱していた。三時頃、他の客陣と共に眠気に負けたのが最後の記憶である。アルコールを介せば外国語は自ずと上達すると先人達は賢しらに語るが、若さをもってしても健康的な生活の阻害と体重の増加はけして少なくないデメリットだ。私は短間睡眠でハイレベルパフォーマンスを発揮するエポックメイキングな類の人間ではないのだから。

家に眼鏡を忘れ、焦点の合わない視界をゆっくり傾けているうちに、不思議そうに首を傾けているけものを見つけた。猫である。
友人が飼う二匹の内人懐こい方だったよな、と緩く握った拳を差し出すと、その先の白い両手で捕まえられ、大きく開いた口に甘噛みされた。思わず手を引く。間が悪かったらしい。再び出してみるとそのむちむちとした体全体で押さえ込まれた。私の行為が猫にとって都合のよいものなのか悪いものなのかはわからないが、柔らかな毛並みと少し高い体温は三月の朝には離れ難い。噛まれ爪を立てられ痛いものは痛いのでどうするべきかと迷っていると、もう一方の線の細い猫が軽快な足音を伴って現れた。
そちらの猫は身軽に主の眠るベッドへと乗り上げた。昨夜は随分警戒されてしまったので、何気ないふりをして大人しく様子を見ていると、二匹はぶありと背を弓なりにして勝手に絡み合っていった。そういう間合いだったらしい。放り出された左手をさすりさすり、台所へ駆けていく音を耳に、どこかで見たゴヤの絵を思い返した。あれも確か朝だった。

猫は一時として同じ形状を持つことがない、と画家は言う。ネットスラングで見つけた中には猫は液体であるとまで言い切るものもあった。画素の荒い視野ではそれらの言葉は随分説得力を持つ。力なく寝そべる姿は適温で溶けたチョコレートのようで、かと思えば途端に流動して個体に変化する。画家や作家が愛したように、そのフォルムにも動きにも行動の法則にも魅力が詰まっている。
同時に、猫は近代市民社会を象徴する生き物でもある。自らの権利を知り、街を闊歩し、群衆を一歩引いた場所から眺める猫は、詩人の現れともパリに適応したものとも言えよう。ここでポーの黒猫やゾラのテレーズラカンを例に出すのは、カップルに招かれているにあたって些か不吉だろうか。

大きい方の一匹がかけ戻ってきた。友人のパートナーの横をするりと抜け、猫は飼い主の枕元に鎮座する。ちょうどシルエットが影になっているから、窓を通して刻一刻と白んでいく外の世界を見ていることだろう。それにしても眠る恋人たちの枕元でパリの街を見下ろす猫、なんて出来すぎなくらい近代詩的じゃないか。そんな自己満足に浸っていると猫は首の向きを変えてこちらを振り返った。
金色の虹彩に乗った、先程よりも細い瞳孔が私を見つめた気がした。傍観者の目だ。
水の流れのようにさらさら進みゆく時を、光の反射によって記録する瞳。
時計が、私を見ている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?