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「青年の主張」に対する違和感


昨日は祭日。どうも最近、平日と休日の境がわかりにくいのだが、テレビなどを見ていると「普段やっているニュースの時間にニュースがない」なんてことで、改めて今日という日が祭日だったと気が付くことがよくある。

で、昨日もそれで祭日と気が付いたのだが、その気が付くきっかけになったのが、いわゆる「青年の主張」的な催しを行う番組を放送されてのことだった。

そこでふと気が付いたことが、いわゆる「最近の若者の主張」におぼえる違和感の理由だった。

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「最近の若い子たちは、みんなしっかりしているねぇ…」

テレビなどで、若者がインタビューに答えはっきりした受け答えをしているのを見て、うちの母がよく言う。まあまるで台本をそのまましゃべっているかのように、狙った質問に対し的確な回答を行う。今の自分の歳ですら、こんなちゃんとした答えができるだろうか?と心配になるほどちゃんとした答えを彼らがしていることに、本当に驚く。

ところが、こういった現象は今どんな場面でも見られる。10代の子供ですら、本当に「台本を読んでいる」かのような受け答えをする。本当に「台本」がそこにあるんじゃないだろうか。そんな疑いすら見えてくる。

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実はそんなところに、今の若い人たちへの危機的な面が見えてくる。

そうだ、自分が例えば何か問われた時には、もっと回答に躊躇するはずなのだ。ところがテレビではまるでそんな訳はないとばかりにきっちりとした回答の場面が写し出される。もちろんある程度の映像の編集はあるのかもしれない。


しかしそれにしてもその言葉には一片の迷いも見られない。ちゃんと喋れているのだ。本人の意思にしたがって。

それがとても恐ろしいことだ。まさに迷いもない。逆に彼らは、何かに書いたような言葉でしか、しゃべれないのではないか。

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この日の「青年の主張」で一人の少女が語った。

「就職したばかりだと、若い人に何も言わせないけど、もっと何か言えるような環境にしてほしい」

「青年の主張」としてはよくある、最もな意見だ、と思える言葉だった。だけどこういった言葉が一律で皆の口から出てくる。

一方で、その職場のことを考えてみる。就職したばかりの人間に、誰が何を言わせるというのだろう?ある程度その場で働いてきた人たちは、そんな会社の会議の場ではちゃんと「責任」を持った意見を発言する。自分でいった言葉に何等かツッコミが入ったら、ちゃんと理にかなった回答ができる意見を用意しておく。そうして自分の意思、意見を通すために用意しておくべきことを整理したうえで発言をする。

少女がどんな思いで「何か言える環境を」と言ったかはわからないけど、そもそも就職したばかりで右も左もわからない人間にしゃべらせないなんて、普通で考えれば当たり前だ。

そこで一つ気が付いたことがある。若い子はこういったことをふっと言うけど、自分自身でその言葉に責任を持てるのか?まるでどこかから借りてきたようなことばかりを言うけど、本当に自分の意見なのか?そして致命的なのが、「環境にしてほしい」という他力本願的な思いだ。彼らの意見はすごくまっとうに見えるけど、「自分の運命は自分で切り開く」という意思が見えない。自分が自分の意見を言うために、どんな努力をしようと思っているのだろうか?彼女自身に聞いてみたい。

こう考えると、果たして若者が「自分自身で何とかしなければならない」と本気で思っている人がどれだけいるのだろうか?というところが心配になる。もちろん、今の時代は団塊世代の人たちが汗水垂らして作り上げた、何もかもそろった時代で、それをどうするかが若者に受け継がれていく。しかしこの時代の中で、若者たちはなにかその「用意されたもの」の範囲でしか生きていけない、そんな考え方まで狭いところに押し込められてしまったのではないか?という危機感を覚える。

かつて東京都知事の舛添氏が不祥事疑惑で解任、という状況に陥った際に、あるテレビの番組ではこの事態に対して東大の学生にインタビューするという趣旨の企画があり、学生たちは揃って「いや、解任にするよりちゃんと最後まで責任を取らせるべきだ」という回答をした。その意見自体はなるほどもっともな意見だなと思ったが、恐ろしいのは数人の東大生に同じ質問を尋ねると同様の回答が返ってきたというのだ。

その状況は、例えば政治のやり方として論じられた方向性としては合っているのかもしれない。が、逆に「東大に入るとこういうことを言う人間にされる」という危機感まで見えてくる。いや、東大だからなのかどうかはわからない。炎上が怖いのでそこはぼやかして言いたいのだが(笑)、どうも何かの影響で彼らは一方向にしか頭が向かないという風にされているんじゃないか?という怖さが感じられる。しかもまるで「対岸の火事」のごとく、

その意味で彼らは「何かに従った、いかにも理にかなったこと」は言えるようになっているけど、それ以外のことを考えさせることを許されてないんじゃないだろうか、何か見えない支配者に。そしていうことは言うけど、彼ら自身にその目標に対して進もう、という野心も実行力もないんじゃないだろうか?なんて感じに見えてくる。

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過激な方向ばかりに向かうのもどうかと思うが、飼いならされっぱなしで何もできないのもいかがなものだろう?

実はこの春までダブルワークとして働いていたところでとある仕事を請け負った時、仕事をいただいた会社から一人、昨年就職したばかりという一人の担当者をあてがわれ、一緒に仕事をすることになった。

この担当者、もうとにかく酷い。自分では何をしたらいいのかわからず、こっちが雇われの身であるにもかかわらず指示をしてやらないと何も動けない。

しかし、自分のやるべきことが決まれば、しっかりと集中してその仕事をやり遂げようとする。「なんだ、やればできるじゃんか」という感じではないか。

彼は自分の会社の上司からも、僕がいた会社の人からも陰でボロクソの評価を受けていた。だが彼自身がそうなってしまったことが、彼自身だけの責任なのかといえばそうではないんじゃないか。

「最近の若ぇ奴らは…」なんて言っている奴ら自身が、実は若い人たちをそんな風にしてしまったんじゃないだろうか。日本をけん引していく人たちはどんどん若い人に受け継がれていっているが、実態は相変わらずその場に居座っている年寄りの言うことに逆らえないでいるんじゃないだろうか。

本当はウキウキしているはずの祭日の朝に、そんな憂鬱な空色が頭の中の景色が広がっていた。

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