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絶望という感動

感動のもつ力は本当に強い。この事実は思い出せる古い記憶が強い感動を伴ったものであることからもわかる。古い感動は今の自分を形作っている。絶望もまた未来の糧となると信じる。

可能な限りすぐに、そして頻繁に感動に向き合った方がいい

強烈な感動は自分を考えるきっかけになるが、その強さのあまり避けたくなることがある。絶望がその場合だ。しかし、絶望に向き合わなかった場合、負の考えが潜在意識に刷り込まれてしまう。

私は実際にそうなっていた。
初めての絶望との出会いは中学生の時だった。大阪府にあべのハルカスという商業ビルが建ったときで、地上約300mの高さにある展望台から景色を望んだ。飛行機に乗ったことがなかった私はそれまでで最も高い場所に立った。展望台に入ったばかりの夕方においては単純に壮大な景色に軽い感動を覚えた。しかし時間が経ち、夜になって景色を見たとき覚えた強烈な感動は、きらびやかな夜景によるものではなかった。何十万人という途方もない人数を視野に入れていることを認識し、そのうちの見ず知らずの一人一人に焦点を当ててしまった。夜景のほんの一部である、ちっぽけな光を洩らす住宅や車が、その家庭や人の放つ精一杯の輝きのように感じ、人ひとりが社会に及ぼすことのできる影響がなんと小さいのかと衝撃を受けた。
その時の絶望が、自分自身に対する諦めとなって私の内に眠り続けていた。

当時この感動に臨んでいれば、人と協力することの必要性を早くして感じていたかもしれない。

感動は自分の正直な姿を表している

将来どう生きたいかを考えるうちに、感動がそのヒントになることに気付いた。ある事象に出会ったとき、それに対する心の振れ幅はそれぞれの人のバックグラウンドに依存する。何かに失敗したとき、頑張っただけ悔しい思いをするように。

絶望もまたなぜそれだけ心動かされたのか考え、次を考えるきっかけになってくれる。


ここまで絶望と記してきたが、上のような私の感動は特定の望みが潰えたわけでもなく、絶望と表現するのは大袈裟かもしれない。しかし、本当の意味での絶望においても、それと対峙することを避け続ければ、鮮烈な記憶を残すという感動の性質のために、絶望に伴う負の思考を無意識に持ち続ける状態に陥ってしまうかもしれない。

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