墓参りという概念
墓参り。
ここ10年くらいしていない。
機能不全家族の一員のひとのだ。
そもそも機能していなかったので
家族という概念もいまいちわからなかったりするのだが
その血だとか、概念だとかに煩わされてきた人生だったと思う。
わたしのしんどさはそういったものから起因している気もしている。
そしてそれらを恨むことで、立ち上がるエネルギーとしてきた節がある。
けれどそれをそろそろ手放す頃合いなのかもしれない。そういう気配をここ数日感じている。
墓参り。
行ってみようか。どうしようか。
あのひとと対面した時に、どんな気持ちになるのか正直わからない。
許す、という言葉が嫌いだ。
それはなにかを課している気がするから。
見つめざるを得なくなるから。
許す、という概念の本質は
気に留めなくなることじゃないだろうか。
許すとか、許さないとか、言っている間はまだ囚われてるってことじゃないのか?
だったら許すなんて言葉を適切に使うタイミングなんてないのでは?
そんなふうに思ったりする。
とりあえず実際に行くかどうかは棚上げで。
気になるタスクとしてしばらく寝かせておくことにする。
なにか進捗があればここでお知らせするね。
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