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マフラーが返せない(後編)

「日向さん、お昼一緒に行きましょう。」
 付き合い始めて二週間。勇希くんは少しだけ積極的になった。お昼に誘ってくれる回数が増えたし、お互い残業がない日は一緒に帰るようになった。会社のみんなには内緒なので一つ先の駅で待ち合わせて帰ることにしている。
「ここのエビチリ定食美味しいですよね。」
「勇希くん、エビ本当に好きね。私の八宝菜もちょっと食べていいよ。」
「いただきます。」
「んふふ。」
女友達ともするような会話だけど、こんな会話でも勇希くんとだと顏が緩みっぱなしだ。
「この店は思い出のお店だし、美味しいし、行きつけの店になりそうですね。」
「そうね、私もリピーターになりそうよ。」
「私も、じゃなくて、僕たち二人でリピーター。ですよ。」
(勇希くんあんまり私を興奮させないでよー。嬉しい言葉ばかりくれるんだから。)

店を出ると、まだお昼だというのに今日はすごく風が冷たい。あの日の夜と同じくらい。そうか、もう12月だから。
「寒くなったね。もうすっかり冬だね。」
私は薄手のコートのポケットに手をつっこんだ。
「日向さん、マフラーしてこなかったんですか?」
「うん、まだ大丈夫かなって思って。手袋もマフラーも準備してなかったの。」
「今日から冬将軍がくるってお天気お姉さんが言ってましたよ。」
そう言いながら、勇希くんは自分の首からマフラーをするするっと抜き取って、私の首にかけてくれた。
「はい、あっためておきましたから(ニコッ)」
(はぁうあ!殺人スマイル!勇希くん、あなたは今日私を何度殺すのですかーーー。)
「今日はそのマフラー貸しますから、夜もちゃんと巻いて帰ってくださいね。」
「あ、ありがとう。ほんとに、ありがとう。」


 家に帰ると「おかえり。今日ね、お隣の岩山さんが」と話したがる母親を制止して、「ただいま。後でね。」と短く答え、すぐさま自分の部屋へと向かった。
まずマフラーを丁寧にベッドに広げた。それからコートを脱いでハンガーにかけ、バッグをいつもの位置に収納する。
準備は整った。
私はベッドに向かい合うように正座して座り、マフラーを持ち上げ一礼する。そしてその柔らかな生地の中に一気に顏をうずめた。
スーハー
「ああ、これが勇希くんの香り…」
スーハー
「最っ高…!!」
スーハー
「なんか甘い匂いがするーーー!!」

家に帰った私は無敵だ。ここでは一切自分を封じるものはないのだ。思う存分興奮していい場所、それが家だ。
お昼にマフラーを巻かれたときからずっとこうしたかった。リミッターをとっぱらった私は思う存分好きな人の香りを堪能し、多幸感でいっぱいになった。

 
(今日は枕元にマフラーを置いて寝よう!勇希くんの匂いに包まれながら眠る。これはもうベッドを共にしているも同然!!)
パジャマ姿の勇希くんが私と鼻と鼻がくっつきそうな距離で腕枕をしている。そんな妄想を膨らませながら眠りについた。


「ヤバイ、もうこんな時間!遅刻するー!お母さん起こしてよ~~~。」
「何度も起こしたけど、あんた起きないんだもん。」
「もう~~~~。ご飯はいいから。」
「はいはい、まったく。」
結局興奮しすぎてなかなか眠れず、朝方になってやっと眠れたのだ。
十分で準備をし、走って駅へと向かった。


(今日はお昼別々かぁ。でもあんまり一緒に行ってたらいつかバレそうよね。このくらいがちょうどいいわね。
今日の仕事量なら残業はしなくてよさそうだし、一緒に帰れそう。楽しみにがんばろう。)

―いつもの駅で待ってますね―
勇希くんからメッセージが来てた。やっぱり今日は一緒に帰れるんだ。昨日の夜のことを思い出して少し興奮してきた。だめだめ美晴、抑えて。

「芝田くん、お待たせ。」
「日向さん、お疲れ様です。今日も寒いですね。」

(ん?そういえば、勇希くんなんだか薄着に見えるけど?
違う、マフラーがないからだ!そうだ、マフラー!!あああああ忘れてきたーーー!)

「勇希くん、ごめん!あの、今日返そうと思ってたんだけど、朝急いで出てきたからうっかり持ってくるの忘れちゃって…。今日も寒いのに、本当にごめんなさい!」
「気にしないでください。大丈夫ですよ、一日くらい。昨日も全然平気でしたし。」
(勇希くん優しい。神様!)
「それより、今勇希くんって…。嬉しいです。そう呼んでくれて。」
(しまった!うわーーー恥ずかしい!うっかりマフラーも忘れるし、うっかり勇希くんって呼んじゃうし、今日の私うっかりすぎー!)
「あ、あの。今のは間違いで!ああ恥ずかしい…。」
「僕は嬉しかったですよ。勇希って呼んでください。僕も美晴さんって呼んでいいですか?」
「は、はい…。」
なんだかんだうっかりが功を奏して二人の仲が少しだけ進展した。


 家に着いた私は今日も母親の岩山さん攻撃を制止して、一目散に自分の部屋へと向かった。
「やっぱり。ベッドの上に置きっぱなしにしてたんだわ。」
マフラーを手に取る。マフラーと顏の距離が無意識に近づいていく。
(もう我慢できないっ…!)

スーハー
「今日もいい匂い。」
スーハー
「勇希くんがここにいるみたい…。」
プッハー
「勇希くんっ…!」

(マフラー、明日にはちゃんと返さないと、だよね。
返したくないなぁ。明日も明後日もずっと嗅いでたいなぁ。)

マフラーをじっくり眺めていると、紺色の中に小さな茶色いシミを見つけた。
クンクン。とりあえず嗅いでみる。
実は資格マニアの私。食品判別鑑定士2級の資格を持っている。資格を取ったからには活用せねば。
(この部屋の湿度は40%。ここから計算するに、水分飛散率85%。そしてこのほんのり甘い香り。まちがいない!これはチョコレートだ!)
「勇希くん、チョコレート好きなんだ。バレンタインは手作りにしちゃおっかな。」


 今日も枕元にマフラーをきっちり設置して眠った。

 今朝は朝寝坊もしなかったし、頭もスッキリしている。

「よし!ちゃんとマフラー、バッグに入れたからね。」
「名残惜しいけど、今日はちゃんと返そう!」

―今日も夜大丈夫そうですか?一緒に帰りましょう―
勇希くんからメッセージが来ていた。


 いつもの駅に勇希くんがいた。
「勇希くん、お疲れ様。」
「美晴さん、お疲れ様です。」
下の名前呼びにまだ慣れていない私達はお互い顔を見合わせてはにかんだ。

かばんの中をチラッと見る。返さないと、という思いに反して、嗅ぎたいという欲求がこみあげてくる。
(返さないと。返さないと。返したくない。今日も持って帰りたい。嗅ぎたい!早くこれに顔をうずめたい!!)

「今日も寒いですね。」
勇希くんがジャブを打ってきた。これはきっとマフラー返せと言っている。
「あのね、マフラー…なんだけど。」
私はかばんの中身が見えないように右肩から左肩にかばんを持ちかえた。
「ごめんなさい!今日も忘れてきちゃったの!」
「え!そうだったんですか。美晴さん、結構うっかりさんなんですね。あはは。かわいい。」
(勇希くん…!自分の欲望のために嘘をついた私を責めることなく、かわいいとまで言ってくれるなんて。私本当に勇希くんが好き…!)
勇希くんは気にも留めていない様子だったけれど、私はさすがに罪悪感を感じた。勇希くん、風邪ひかないでね…。


 家に帰ると、母親が今日は逃すまいと、岩山さん情報を一方的に話し始めた。
一刻も早く自分の部屋で匂いを嗅ぎたい私は、トイレに行くと言って撒いてきた。

いつもの儀式を始める。

スーハースーハー

ん?この部分…
色彩濃度検定3級を持っている私は、マフラー中央部分だけほのかに濃淡が違うことに気付いた。
(汗染みだ!!!勇希くんの汗染みだわーーーー。)
私は濃い部分に顔をうずめながらたっぷりと匂いを堪能した。
(まるで勇希くんに、ぎゅって抱きしめられてるような感覚。
私もうこのマフラーを返せない体になってしまったみたい…)


私は覚悟を決めて勇希くんにメッセージを送った。

―マフラーのことなんだけど、度々ごめんなさい。お父さんが自分へのプレゼントだと勘違いして使い始めちゃってたの。なるべく早く取り返すから、ごめんね。それまでは代わりのマフラーを持っていくからそれを使って。―


我ながらいいアイデアだった。
マフラーを嗅ぎすぎたせいで、日に日に勇希くんの匂いは薄れていっていた。ここで私のマフラーを貸せば、勇希くんのマフラーを返した後も、新たな勇希くんの匂いを嗅ぐことができるという算段だ。きっと私今、悪い顏をしてる。


 
 赤木と安田が勇希くんに話しかけている。
「芝田、最近マフラーしてないな。お気に入りだって言ってたのにどうしたんだ?」
「えっと、それが…」
勇希くんが私の方をチラッと見る。私はブンブンと首を横に振った。
「今、クリーニングに出してるんだよ。」
(勇希くんナイスな返答。)
「ああそうか、こないだカレー飛び散ったって騒いでたもんな。」
「そうそう、そうなんだよ。それが気になってさ。」

(あの茶色いシミ、チョコじゃなくてカレーだったの?カレーだったら全然匂いが違うはずなのに。そうか、勇希くんのあまり溢れるフレグランスがカレー臭をも甘いチョコ臭に変えてしまったのね!)

 もうすぐ付き合って一か月になる。今日こそこれを返さないと…。さすがの私もこのままじゃいけないなと思っている。
勇希マフラーの中毒性はどんどん増し、最近ではバッグに入れて持ち歩いている。トイレでマフラーを吸ったり、歩きマフラーをしたり、行動がエスカレートしてきている。

 私たちの関係は名前呼び以来、ほとんど進展していなかった。ここのところ残業続きでほとんど一緒に帰る機会がなかったからだ。
でも今日は久しぶりに勇希くんと帰れる。私、マフラー、返せるかな。

「おつかれさまです。」
先に私を見つけた勇希くんが、駅の改札付近で手を振っている。
「おつかれさま~。」
早く勇希くんのところに行こうと小走りで近付いていったそのとき、階段に足を取られよろめいた。
勇希くんが駆け寄り、即座に私を支えてくれた。は、いいが、バッグの中身があらわになっている!!
しかも何をどうみても、くっきりはっきり勇希くんのマフラーが丸出しになっているではないか。

「僕のマフラー…」
(もうこうなってしまっては仕方がない。今日返そう。)
「あ、このマフラーね、えっと今日」
と言おうとしたところ、勇希くんの声が遮った。
「実は何日か前から気付いてたんです。ずっと僕のマフラーが美晴さんのかばんの中にあること。でもなんでだろうって思って。考えても分からなくて。」
(最悪だ。バレていた。)
もうこうなったら正直にゲロってしまうしかない。私は腹を決めた。
「勇希くんに、内緒にしてたことがあるの…。私、もう、勇希くんの匂いのついたマフラーなしには生きられない体になってしまったの。」
「ど、どういうこと!?」
「勇希くんに近づきたくて…。勇希くんの匂いを嗅いでると、言うの恥ずかしいんだけどね、勇希くんに抱きしめられてるような気持ちになるの。気持ち悪いよね、私。こんな私でごめんなさい…。」
「美晴さん…。気持ち悪くなんかないです!僕、なかなか手もつないでもらえないし、もしかしてもうダメなんじゃってちょっと自信なくしてたんです。そんな風に思ってくれてたなんて。僕嬉しいです!」
「いいの?勇希くん。こんな私で。」
「美晴さん、これからは直接嗅いでください!」
そう言って、勇希くんは強く強く私を抱きしめた。

(完)


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