福田和宙
現代人の私たちが古事記を読んで「よく分からない」と思うのは、古代人と現代人では「心の在り方」が違うからです。また、当然ながら世界(宇宙)の捉え方も違います。とは言え、私たちがどこから来たのか?と考えたとき、間違いなく古代の日本なのです。そこには、日本という国と、そこに住む私たち日本人の元型があります。元型を探り、その象徴的な意味合いを紐解く試みは、私たちの心を深層へと導きます。それは、「わたし」というものの本質へと導く旅でもあります。このマガジンでは、神話的宇宙観と現代のリアリティを対比させながら、古事記に秘められた暗号を解いていく内容を連載していきます。
大和魂と言うと、勇ましくマッチョなイメージがありませんか? 私も「古事記」とか「縄文」に興味を持つ前は、「大和魂=力強く男性的」というイメージを持っていました。 しかし今では、全く逆のイメージを持っています。 大和魂、それから大和心というのは、実は女性的な感性なんですね。 江戸時代の国学者、本居宣長は古事記を研究し、35年かけて「古事記伝」44巻を執筆しました。 本居宣長は「日本の思想に立ち返れ」ということを説いた人です。 江戸時代の学者というのは、一般に中国の古
二か月ほど前の話です。仕事先である人と世間話をしていて、ビックリ!したことがあったんです。 世間話の相手は、横山さん(仮名)と言って、年齢は私と同じくらいのアラフィフ男性です。 アラフィフ男性同士の世間話となると、五十肩だとか、腰痛いとか、老眼でモノが見えにくいなど、 どうしても加齢による悩みが主な共感ポイントになるので、まあそのときも視力の話だったんですね。 私は近眼+老眼なので、焦点が合いにくく、やたらと目が疲れます。 私がそう言うと、横山さんは「それは大変です
子供の頃から、「いまの私ではない何か」になる練習をたくさん積んできました。 それで、大人になったときには、すっかり<わたし>のことを忘れてしまいました。 産まれたばかりの頃は、世界は全部<わたし>のものでした。 見えている世界全部が<わたし>でした。 <わたし>は祝福されており、ただいるだけで周りの人たちを幸せにすることができました。 <わたし>はみんなから無条件に愛されていました。 <わたし>は全くもってそのような存在で、そうでない可能性は微塵もありませんでした
私は、民族の深層に共通して流れるストーリーが、神話というものだと思っています。 私が「自分」だと思っているものは、私の顕在意識が創り上げてきた個人的ストーリーだとすると、神話は潜在意識に流れる集合的ストーリーではないでしょうか。 神話で語られるストーリーをシンボルと捉えると、いろんなことに当てはめて解釈することができます。 例えば、イザナギとイザナミをシンボルと捉えた場合、 イザナギ イザナミ 弥生以降の父権社会 縄文的母権社会 男性的価値観
昨年、私は「超訳・古事記入門~天地開闢編~」という本を書いたのですが、実のところ 古事記についてのウンチクとか、古事記に関する知識を伝えたかったわけではありません。 勿論、古事記がきっかけで私は「わたし」のことが分かるようになったし、生きるのがとても楽になったのですが、古事記そのものというより「超訳」したことが、私にとって意味をなしたのです。 ですから私にとって、古事記は手段であって目的ではない、のです。 本当に伝えたかったのは、「あなたが、本当のあなたとして生きる素
たまに散歩のことも書こうと思います。 行った場所のこと、そこで感じたことなど・・・。 新年の散歩は、山歩きが多かったです。 正月休みのうちに、以前から行ってみたかった宮崎の「神さん山」に行けたのはよかった。 どーーーーん! ダイナミックな景色です。 この辺りには、古代の磐座と思われる巨石がごろごろしていています。 天気もよかったので、岩の上で昼寝したいぐらいでした。 でも、寝返りうっったら落ちそうなので、ちょっと怖いです。 ここに来た目的は、縄文遺跡である三角
黄泉の国が、根の国・底の国と同一視される根拠は、黄泉比良坂(よもつひらさか)という出口が共通しているからです。 黄泉の国を訪れたイザナギが、イザナミから追いかけられ、命からがら逃げ出てきたのが黄泉比良坂(よもつひらさか)でした。 イザナギは、このとき千引きの岩で、黄泉比良坂(よもつひらさか)を塞いでいます。 イザナミが黄泉の国から出てくることができないように塞いだのです。 根の国を訪れたオオナムチは、スサノヲが眠っている隙に、生大刀・生弓矢、天の詔琴などの宝物を勝手に
日本昔話で「鼠の浄土」という話があります。 「おむすびころりん」ですね。 おじいさんは昼食のおむすびを食べようとしたが、それを落としてしまう。 おむすびは坂を転がり穴の中に落ちたので、おじいさんは穴の中まで追いかけていった。 穴の中にはネズミの国があり、おじいさんはネズミたちから財宝を授かる、という話です。 異界を訪問し、そこから宝物を持ち帰るパターンのお話ですが、この元ネタは「オオナムチ(オオクニヌシ)の根の国訪問」でしょう。 オオナムチは兄弟である八十神たちに
ニニギがイワナガヒメを送り返したのは、イワナガヒメが醜かったからです。 醜い=「見・難い」 イワナガヒメは「見るのが難しい」のです。 永遠性の象徴ですから。 永遠なんて、そんなものどこにある? 私たちは、永遠を見つけることができません。 それは、時間と言う概念に縛られているからです。 でも、時間は概念上のものであって、存在しないかもしれませんよ。 時間が存在するか否かに関する議論は、ここ最近のことだと思いますが、 数字の0(ゼロ)が、この世には存在しないこと
新年あけましておめでとうございます。 今年がみなさまにとって、楽しく健やかな一年でありますようお祈りいたします。 みなさまは、どんな正月を過ごされましたか? 私は、長崎の実家で年越ししました。 私の実家は、玄関先から真正面に初日の出を拝むことができます。 まだ薄暗い空に、燃えるような太陽がポコっと頭を出す瞬間は何とも言えませんね。 思わず手を合わせて礼拝してしまいました。 西洋人の目には極めて原始的に映るかもしれませんが、自然とそうなってしまうのだから「プリミテ
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アマテラスは、なぜ狼藉を働いたスサノヲを責めるのではなく、むしろ敬意を表し、自ら岩戸にさし籠り、徹底的に自己と向き合うに至ったのでしょうか? この疑問を解くため、これまでの経緯をあらすじで振り返ってみましょう。 「・・・イザナギとイザナミはたくさんの神々を産みました。 しかし、最後に火の神カグツチを産んだ時、イザナミは大火傷を負い、その怪我が元で死にます。そして、黄泉の国へ行ってしまいます。 イザナギは嘆き悲しんで黄泉の国のイザナミを訪ねます。しかし、そこで恐ろしい姿
アマテラスは高天原でのスサノヲの狼藉をみて、天の岩戸に隠れたとされています。 スサノヲの狼藉を 「恐れて、岩戸に隠れた」 或いは 「怒って、岩戸に隠れた」 と訳されることも多いのですが、 私個人の意見として、そうした訳は微妙にニュアンスが違うと思っています。 アマテラスは、 「恐れて、岩戸に隠れた」~スサノヲに恐怖を抱いて、目の前の現実から逃げたのでもなく、 「怒って、岩戸に隠れた」~ 遂に堪忍袋の緒が切れて、ストライキに及んだわけでもなく、 勿論、世界を闇にし
メリー・クリスマス! ということで、今日はクリスマスに関することを書こうと思います。 「クリスマス=イエス・キリストの誕生日」と一般的に解釈されていますが、正確には誕生祭なんですね。 イエス・キリストの誕生日は、記録がないので誰も知りません。 元はミトラ教の「冬至の祭り」の日だったのが、後にキリスト教に取り込まれていったようです。 冬至とは、まさに「陰極まりて陽に転ずる」日です。 太陽の勢いが最も弱くなったところから転じて、徐々にその勢いを回復していく、その境の日
古事記において、最初に現れた神は、天之御中主神(アメノミナカヌシ)です。 続いて二柱の神、高御産巣日神(タカミムスビ)と神産巣日神(カムムスビ)が現れました。 高御産巣日神(タカミムスビ)と神産巣日神(カムムスビ)に共通するのは、神名に産(ムス)という字を持つことです。 産(ムス)とは、産み出すことで、つまり創造することです。 では、この「産(ムス)」は、現代の私たちにどのように対応しているでしょうか? 私たちはみんな、父と母があり、その対極的な陰陽の統合という働き
街を歩けばクリスマス商戦真っ只中。 商売をされている方々にとっては、まさに今が書き入れ時。 特に物販をされているお店は、明日あたりがピークかもしれませんね~。 そんな中、一体誰が興味持つんだ!?というマニアックなタイトルで記事を書き始めてしまった私・・・。う~ん、まあよい。 さて、クリスマスにいちごショートみたいなケーキを食べるのは日本だけらしいですね。 アメリカでは、ケーキもチキンも食べないらしいですよ。 クッキーとか、七面鳥は食べるみたいですけど。 最近の子