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石長比売(イワナガヒメ)と木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)<前編>~ 古事記の暗号 5

新年あけましておめでとうございます。

今年がみなさまにとって、楽しく健やかな一年でありますようお祈りいたします。

みなさまは、どんな正月を過ごされましたか?

私は、長崎の実家で年越ししました。

私の実家は、玄関先から真正面に初日の出を拝むことができます。

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まだ薄暗い空に、燃えるような太陽がポコっと頭を出す瞬間は何とも言えませんね。

思わず手を合わせて礼拝してしまいました。

西洋人の目には極めて原始的に映るかもしれませんが、自然とそうなってしまうのだから「プリミティブ!」と言われようが、知ったことではありません。


元日の予定はノープランだったのですが、ふと以前から気になっていた神社のことを思い出しました。

そこで、実家を早めに出て、初詣ということで、その神社に参拝することにしました。

向かったのは、長崎県雲仙市瑞穂町にある岩戸神社です。


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この神社は地元の友人から「一度、行くといいよ」と勧められていたので気になっていたのですが、詳細については何も知りませんでした。入口に到着して看板を見ると、ご祭神は石永姫命(イワナガヒメ)、水の神、山の神、作物の神 とあります。

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人気の木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)ではなく、イワナガヒメをお祀りしているではないですか!それだけで、気分が高揚する私。

なんで、そんなことで喜ぶのか?

いや、自然とそうなってしまうのだから、「マニアック!」と言われようが、知ったことではありません。

清浄な空気に包まれた山道を登り、鳥居をくぐった先にある急な石段を上がると、神楽殿のような建物が見えてきました。


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木漏れ日も神々しく感じつつ、歩を進めます。

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神楽殿。そして、この先には巨大な岩壁がそびえており、岩窟の中に拝殿がありました。

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ここに石長比売(イワナガヒメ)が祀られているようです。

拝殿の右手にも岩壁は連なっており、小さな滝と、洞穴も二つ見えます。

二つの洞穴には、それぞれ祠があり、一つは「水の神」として弥都波能売神(ミヅハノメ)が祀られていました。ミヅハノメは映画「君の名は。」の影響で、最近注目されている神様ですね。

そして、もうひとつの祠には「山の神」として大山祇神(オオヤマヅミ)が祀られていました。

大山祇神(オオヤマヅミ)は、石長比売(イワナガヒメ)と木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の父神です。

古事記では天孫降臨の章に登場します。

天照大御神の命により、日向の高千穂に天下りした邇邇芸命(ニニギ)は、そこで超・美人の木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)に一目惚れし求婚します。

邇邇芸命(ニニギ)はアマテラスの孫ですから、父神である大山祇神(オオヤマヅミ)も喜んで快諾するのですが、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)と一緒に姉の石長比売(イワナガヒメ)も嫁に出します。

邇邇芸命(ニニギ)は驚きます。木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)は超・美人なのに、姉の石長比売(イワナガヒメ)は超・ブサイクだったからです。

「いや、コノハナサクヤヒメだけでよかったんですけど~」

邇邇芸命(ニニギ)は、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)だけを留め、石長比売(イワナガヒメ)は送り返してしまいます。

ひとりで帰ってきた石長比売(イワナガヒメ)を、大山祇神(オオヤマヅミ)は泣きたい気分で迎えます。

そして、次の返事をニニギに送り言います。

「わたしが、二人の娘を並べておくったのは、

イワナガヒメがあなたの妻となれば、天津神の皇子(ニニギ)の命は

雪が降り風が吹いても、常に岩のように固く、永遠に動かず変わらぬものとなりましょう。

木花咲耶姫を嫁にしたならば、木の花が咲き誇るように栄えましょう。

私は、そのように誓約(ウケイ)をしたのです。

ところが、あなたはイワナガヒメを送り返し、コノハナサクヤヒメだけを留めた。

それゆえ、天津神の皇子(ニニギ)の寿命は、木の花のように儚いものとなるでしょう。」

これにより、現在に至るまで、天皇の寿命は長くは無くなってしまいました・・・。

上記のエピソードから、

木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)は「繁栄と儚さ」、

石長比売(イワナガヒメ)は「永遠性」の象徴とされています。


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案内板には、「この洞窟は縄文時代以前からの住居跡と考えられている」とありました。

一万年も前から、ここにヒトがいて、生活を営んでいた・・・。

そして歴史は流れても、この岩窟は悠久の時を超えて、ずっとここにあるのです。


現代の日本は繁栄を極め豊かになりました。その一方で、世界の中でも自殺者が多い国として知られています。

こんなに豊かになったのに、なぜ絶望してしまう人が後を絶たないのでしょうか?

絶望とは、一切の希望を失い、夢を見ることさえできない状態です。


私たちは「目に見える豊かさ、美しさ」ばかりを追い求めてきたのではないでしょうか?

そして、「目に見えない豊かさ、美しさ」を感じる力を失いつつあるのではないでしょうか?

私たちは「見る」ことにおいて、眼という肉体器官に頼りすぎてきたのではないでしょうか?

勿論、「見る」ことの基本的な意味は、眼という器官を使って、視覚的に物事を捉えることです。

しかし、眼には弱点があります。

眼は、自分自身の顔面を見ることができないのです。

肉体の眼は、視覚として「わたし」の全貌を捉えることができません。

「わたし」の眼は、「わたし」の外側しか見ることができないのです。


ところで、オーストラリアの先住民であるアボリジニは、神話的物語のことを「ドリーミング」と呼びます。

彼らは「ドリーミング(神話)」や「睡眠時の夢」を、もうひとつの現実(リアリティ)として捉えています。


私たちは睡眠時の夢だけではなく、意識の中に理想とするビジョンを描く場合も、夢を見ると言います。

どちらの場合も夢を見るのは、肉体の眼ではありません。視覚ではない何かです。


私たちが夢やビジョンを見るとき、一体どこの目で見ているのでしょうか?

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縄文人が住んでいたかもしれない岩戸の前にて。


つづく

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