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イエス・キリストとスサノヲ~古事記の暗号 2

メリー・クリスマス!

ということで、今日はクリスマスに関することを書こうと思います。

「クリスマス=イエス・キリストの誕生日」と一般的に解釈されていますが、正確には誕生祭なんですね。

イエス・キリストの誕生日は、記録がないので誰も知りません。


元はミトラ教の「冬至の祭り」の日だったのが、後にキリスト教に取り込まれていったようです。


冬至とは、まさに「陰極まりて陽に転ずる」日です。

太陽の勢いが最も弱くなったところから転じて、徐々にその勢いを回復していく、その境の日です。

一旦、死んだ太陽が、この日を境に生き返る。

つまり、死と再生。復活。蘇り。re-birth(再び生まれる)を象徴する日です。

イエス・キリストは人類の罪を背負って十字架に架けられ処刑されますが、その三日後に復活します。

一度死ぬことで、全ての人類の罪と、自らの死を克服し、再び生まれました。

そのイメージが、冬至という「陰極まりて陽に転ずる」日のイメージと重ねられ誕生祭として定着したのではないでしょうか?

イエス・キリストの復活祭は、イースターとして春分の頃に祝われますが、春分よりむしろ冬至の方がよりイエス・キリストの復活を象徴している気がします。


さて、古事記にも「冬至」のイメージとピッタリ重なる神が登場します。

ご存じ、スサノヲノミコトです。

スサノヲは、アマテラスの治める高天原にて大暴れしたとされています。

すなわち、田を壊したり、神聖な御殿に糞便をまき散らしたり、機織り御殿に皮を剥いだ馬を投げ込むなどの狼藉を働き、アマテラスはそれを「見畏(みかしこ)みて」天の岩戸に隠れてしまいました。

それにより、世界は闇に包まれます。そこで、八百万の神々は協議して、岩戸の前で祭りを行うことにします。

浅草ロック座のような、ステージと客席との一体感!会場を埋め尽くす高揚感!そして歓声!

あまりの騒ぎにアマテラスが外の様子を見ようと岩戸から少し身を乗り出したとき、隠れていたアメノタヂカラヲがアマテラスを引っ張り出し、世界は再び明るくなりました。

スサノヲが高天原で犯した罪は「天つ罪」と呼ばれ、神道では罪の起源とされています。

八百万の神は罰として、スサノヲの髭を切り、手足の爪を抜いて、高天原を追放してしまいます。

手足の爪を剥ぐのは痛そうですが、ヒゲを切るぐらいは罰としては軽い感じがします。

しかし、手足の爪と髭というのは、神としてのエネルギーの象徴であり、スターウォーズにおけるフォースのようなものです。

つまり、フォースを剥奪されて高天原を追放された、ということは、スサノヲは神として一度死んだ、という意味合いなのです。

天上界を追放されたスサノヲがその後どうなったかというと、地上界である出雲に下り、ヤマタノオロチを退治し、その尾から後に「三種の神器」のひとつとなる剣を入手し、その上、美しきクシナダヒメを妃として娶ります。そして、日本で初めての和歌とされる

「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」

という歌をクシナダヒメに贈ります。

天上界で手の付けられない暴れん坊だったスサノヲは、神として一度死に、地上界で再び生まれた後は一転して英雄となるのです。しかも、ただの力自慢ではなく、和歌を詠むインテリジェンスまでも合わせ持って・・・。

上記のストーリーにおいて、ふたつのイメージが「冬至」と重なります。

一つ目は、アマテラスの岩戸隠れです。

太陽の象徴であるアマテラスが岩戸に隠れることで世界は闇に包まれます。

そして、アマテラスが岩戸から出ることで、世界は再び光に照らされます。

つまり、太陽の死と再生、という「冬至」そのままのイメージです。

もうひとつは、スサノヲの高天原からの追放&出雲での英雄としての復活です。

神道で罪の起源とされる「天つ罪」。

この「天つ罪」を一身に背負ったスサノヲは罪の化身です。

八百万の神々からフォースを奪われ、高天原から追放されることで、スサノヲは神として一度死にます。

しかし、その後、地上界である出雲に再び生まれ、そこで英雄になります。

つまり、イエス・キリストと同じように、一度死ぬことで「罪」と「死」を克服し復活を遂げるのです。

さて、この話が「現代人のリアリティ」に、どう対応するのでしょうか?

ここで「罪」ということについて考えてみたいと思います。

私は、ボブ・ディランのI Shall Be Releasedという曲が好きなんですが、何からの解放を歌っているのか長年謎だったんですね。

ファンの間でも歌詞について様々な解釈が議論され、いろんな和訳がネット上に発表されていますが、どれもいまいちピンと来ませんでした。

ところが最近、シンガーソングライターの神谷 燿さんによる和訳を読んで、初めて「これだ!」と腑に落ちたのでした。

神谷 燿さんが指摘されているように、ボブ・ディランは恐らくキリスト教における「原罪」からの解放を歌ったのです。

クリスチャンではない一般的な日本人には、「原罪」という概念はありません。

西洋の人たちが持つ「原罪」という罪の意識が、どれくらい重いものなのか私たち一般的な日本人には想像すらできないのです。

そのため、日本人にはボブ・ディランのI Shall Be Releasedの和訳が困難だったのです。

よく「西洋は罪の文化、日本は恥の文化」などと言われます。

この説の元ネタは「菊と刀」ですが、言わんとするところは、概ね次のようなことです。

キリスト教国においては神の戒律が行動の規範となっており、戒律から外れると罪の意識を持つ。日本は多神教国で、ことあげせずといって神道には戒律も経典もない。神に対する意識が希薄であるため、神よりも、他人にどう思われるかといった世間の目を気にする傾向がある。つまり、正しいかどうかではなく、他人にどう思われるかで自分の行動を決める。

・・・まあ、確かにそういう部分もなくもないですが、私はこの解釈には同意しません。

確かに、日本人にはキリスト教国の人たちにとって「原罪」というものがどれほど重いものかは想像できません。

「罪といふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 

天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す」

大祓詞で、「あらゆる罪をなかったことにして、川、海、根の国、底の国へと水に流してください」と神々にお願いできる日本人にとって、確かに「原罪」の重さは理解できないかもしれませんし、神に対する「罪」の意識も希薄かもしれません。

神に対する「罪」の意識は希薄かもしれませんが、神に対する「恥」の意識はあります。

「お天道様に恥ずかしくないように」

「お天道様に顔向けできない」

などの言葉が示すように、

誰も見ていなくても、つまり他人の目がなくても、お天道様は見ている

という意識が、日本人にはあるのです。

だからこそ、東日本大震災における日本人の行動やたくさんのエピソードが、海外の人たちに感動を与え得たのだと思います。

正しいかどうかではなく、他人にどう思われるかで自分の行動を決める。

・・・ことも、多少あるかもしれませんが、

イザという時には、やはり「お天道様に恥ずかしくないように」行動するのが日本人ではないでしょうか?

さて、ボブ・ディランが解放を願った「原罪」という罪の意識。

罪の意識を持つ人は、実際に罪を背負っているのでしょうか?

罪は、イエス・キリストやスサノヲが背負ってくれたではないですか。

「原罪」という意識はないにしても、私たち日本人もたくさんの「罪悪感」を握りしめています。

罪悪感から解放されるには、

罪悪感とは、「あたかも罪悪であるような感じ」なのであって、

罪悪ではない、ということに気付くことから始まります。

「あ、なんだ。自分が罪悪のように感じていただけなのか。」と気付く、ということです。

罪悪感については、根が深いテーマですので、また次回以降も書いていく予定ですが、罪悪感を手放すことこそが「わたし」に解放をもたらすことは間違いありません。

それは、まるで一度死に、生まれ変わったかのようなインパクトを放つ解放なのです。

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