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文章を書き始めた頃

修理に出していたタブレットが戻ったと、孫娘から電話があった。修理が終わったら、「noichigo」のアプリが消えていたそうだ。IDとPWはGoogleChromeにログインすれば残されている。正月の前に来るので、その時に教えると約束した。

電話口でも簡単にできるのに、おジイちゃんスゴいね、なんて直に言って欲しくて・・・。子供は嫌いなはずなのに、なぜか孫娘は可愛い。実の娘よりも可愛いと思える。

4年生の頃から書いてる恋愛小説、小学生の恋愛小説って・・・、タブレットの修理を機会に、今度は面白い話しを書きたいと言ってた。恋愛小説は一部の友達と先生に好評らしい。たまに書く面白話は、みんなに好評だという。

森鴎外や夏目漱石はまだ早いだろうが、モノを書く楽しみを覚えたなら、何とか志賀直哉とか井上靖、せめて『伊豆の踊子』を読んで感激してもらいたい、のだが、全く興味は無いらしい。子供用の恋愛小説は卒業して、今は母親の読んだ東野圭吾や、好きな湊かなえを読んでるようだ。どうも、その感覚が良く理解できない。

『伊豆の踊子』の世界を知って欲しいと、伊豆旅行へ誘い、下田の街を歩いたのに、歴史には多少の興味は有ったようだが、幾ら話しを向けても上の空だった。


自分自身の同じ頃を振り返ると、5年生になるまでは方向性の無い多読だった。図鑑から新聞まで、小説は小中学生向けの「日本文学全集」や「世界文学全集」など、かなりの巻数だったが、贈られると直ぐに読んだ。それでも足りないと、市の図書館で借りては読んでいた。最も好きなのは「シートン動物記」だった。

5年生の時に『伊豆の踊子』を読んで、下田港での別れの所で涙が出てきた。読み返すたびに「道がつづら折りになって・・・」の冒頭部分から、映画のように頭の中を、旅の一行の様子が流れ、最後の下田港の所で何とも言えない感動が湧き上がったものだ。

あまりの感動から、原稿用紙を買ってきて『伊豆の踊子』と『千羽鶴』を書き写した。当時はワラ半紙が主流で、ワラの一部が残って見えてるような、薄い黄色い紙だった。そんなモノに書いたら失礼だと、母に頼んで少し大判の原稿用紙を買ってもらった。あの時に何故『千羽鶴』も選んだのか、未だに思い出せない。

担任ではないので、普段はあまり話したことも無い先生がそれを知り、見せて欲しいと言われて原稿用紙を見せた。その後その先生の勧めで、島崎藤村や井上靖や志賀直哉を読んだ。読んだ後の読後感を書くようにいわれ、次第に文章の書き方を教えられた。読後感以外にも、見たり聞いたりしたことを、原稿用紙3枚にまとめ、書いたものの添削なども、見てる前で説明をしながら手を加えた。

あの1年間で、放課後の少しの時間だったが、添削や評の時間が勉強になった。最近学んだ「日本語学」などの、漢字や送り仮名、カタカナなどの文章内での使い方や、それを使った場合の読み手の感じ方なども、あの当時に学んだことが役に立った。

特に毎回、漢字を使いすぎることを何度も指摘された。長すぎる説明や重複した説明、「が」「を」「と」「に」「の」「のに」「のを」など、助詞や助動詞、当時はただの使い方だけだったが、それが読み手への影響なども教えられた。読書よりも書くことや日本語への興味が湧いた。

中学生になり、中高生向けの月間文芸誌が発刊されていると、馴染みの書店のご主人から勧められた。初めての読者投稿で佳作になり、賞品として赤と青が半分ずつの鉛筆2本が送られてきた。その後も何度か応募したが、毎回ダメだった。高校になり、やっとまた佳作に入選した。この時の賞品がノック式ボールペンだった。書いた内容よりも、田舎者には賞品が珍しく見せて自慢したものだ。

小説っぽい物を書くのを止めた原因は、今思えばバカなようなことで、思い出すたびに苦笑いをしてしまう。本を読んでいた割には、ぜんぜん知識が無かったことが思い知らされた。創作は小説のような物から、映画のシナリオへ向かった。


友人、同級生の女性だが、リクエストに応えて短編を書いて渡したら、クスクスからフッフッフ、ハハハと笑い出した。母にも読んでもらったら、高校生になった我が子に、何と言って教えたら良いのか迷ってる風だった。それを最初に教えたのが母なのに。後に自分で調べて初めて分かった。なんとも、自分だけが知らずにいた事が、真面目にそれを書いたことが恥ずかしかった。

小さい頃は子守をしてくれたネエ達と、少し大きくなってから20歳を過ぎる頃まで母と一緒に風呂に入っていた。長風呂で、風呂の中で思いつくままに話しをするのが好きな子だった。

弟が産まれた頃だったと思うが、ネエと一緒に風呂に入っていて、赤ちゃんってどこから来るのかね、などと聞いたと思う。その時に、ここだよってお腹を指刺した。後で母から聞いたら「お臍が割れて、そこから出てくる」と言ってた。

友人に医者の子がいて、その子の姉さんに本当にお腹が割れても大丈夫なのかと聞いたら、医学書を持ってきて「お腹の中ってこうなっていて・・・」と詳しく説明した。出臍になった妊婦さんの写真があり、それを見ながら「このお臍がもっと飛び出して、パッカンって割れて出てくるんだよ」それを高校生になってからも信じていたのだ。


孫娘の弟、小学3年生が、コンビニに並んでいる女性のおっぱいの写真をジッと見てると言ってた。孫娘にすれば恥ずかしいと思うのだろうが、見たいものや興味の有ることは、早くから知るのも良いと思う。ジイのような失敗をしないように。

知らない事で失敗と言うよりも、気付いた頃から女性が近すぎていた事が、育て方の失敗だと思う。あまりにも近すぎて、裸体は見ていても綺麗とは思うが、女性の身体の中までの興味が湧かなかった。


あの失敗以来、あまり物語は書かなくなった。物語よりも、書く道具の手の馴染みの気持ち良さが好きになってきた。少し太字の万年筆や、2Bの鉛筆で適当に書くのが、書かれた内容よりも、あの手応えが好きになった。好きだったはずの長毛過ぎる筆で、自由に筆文字を書くよりも、プレゼントされた高級万年筆モンブランの太字で書くと、指から伝わる感覚が脳まで響き、何とも気持ちよかった。

それも次第に無くなり、あれから50年以上も書くことも無く過ごしてきた。そろそろ我が人生も終わりに近付き、やっと最近になり、何かを書いてみたくなった。書き始めるとバカ長いものになり、読み返せば内容のない恥ずかしい物ばかりだが、もう一人の自分から添削を受けるような気持ちで書いてる。

本当は万年筆や鉛筆で書きたいのだが、肝心な右手の指にシビレが出てる。頸椎のヘルニアが原因らしいが、手術などする気は無い。

ショックで記憶がアヤフヤになってる人がいる。出来ることなら、その人のことを書き上げて、誰にも見せること無く、棺に入れてもらいたい。


またまた、ただ長いだけの駄文になってしまった。これも朝の訓練、練習と思う。キーボードを打つのも、ほぼ2時間で指の痛みが出てくるようだ。ぜんぜんリハビリにはなってないようだ。




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