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『眠れる美女』を読む

これを読んだのはいつ頃だったろうか。内容に関しては全く記憶にない。他の短編集と同じように、短編といえるほど短くはないが、サラッと読み流してしまったのかもしれない。その後読み返すこともなかったのは、自分の読書は単なる乱読だけなのかもしれない。

三島由紀夫と、川端文学を翻訳して世界に知らしめたエドワード・サイデンステッカー氏が絶賛した『眠れる美女』は、まだ中学生には理解は難しい作品だった。あらためて70歳を超え、川端康成の没年と同じ歳になり読むと、捉え方が全く違ったものになる。

以下「ネタバレ」も・・・。

物語は、67歳の江口老人が、友人の木賀に紹介されて、不思議な宿の客になる。宿では「生娘」が、裸体で眠り続けている。宿の禁則として、ただ添い寝をするだけで、他の行為はしてはいけない。江口老人は自分はまだ若い、他の老人と同じではない、男として禁則は破ってやると思いながらも、何もせずに一晩を過ごす。

若い16歳くらいの娘、若いが妖艶な娼婦とも思える娘、14歳くらいの小さな娘、大きくて暖かい娘、それらの娘と一晩を過ごすたびに、若かった頃の女性関係を思い出す。芸者、会社重役夫人、14歳の娼婦、若い頃の駆け落ち、三人の娘の結婚など、壮健に過ごしていた頃の女性を思い出す。

木賀老人から、福良という老人がこの宿でなくなり、別の宿に運ばれて病死したことにされた話を聞く。若い女性は寝ていて気付かないだろうが、老人にとっては添い寝をされて亡くなるのは幸せなことだと、江口は思う。

寒い夜に江口老人が泊まりに行くと、その夜は二人の娘が寝ていた。身体の熱い色黒の娘と処女の娘に挟まれて寝る。江口老人は色黒の娘が暑がるので、電気毛布を切った。二人に挟まれて、夢の中で自分の結婚当時を思い出し、そして初めての女性は母親ではなかったのかと思う。17歳で母親を亡くした江口老人には、結核でやせ細り、亡くなった母親の中に女性を求めたのではないのだろうか。

夢の中に目覚めると、色黒の娘が冷たくなっていた。すでに顔なじみになっていた宿の女を呼ぶ。何とかしなければと言うが、あとはこちらで何とかするので休んでくださいと、睡眠薬を持ってくる。福良老人が死ぬのは年齢としては仕方ない事だが、色黒で大きくて身体の熱い若い女性が死ぬことに驚くが、それ以上に宿の女がてきぱきと処理することに驚く。一人死んでも、まだ一人いるでしょと、白い錠剤(睡眠薬)をわたされる。部屋には江口老人と、若くて白くて美しい娘が残される。

若い裸体の女性との添い寝を通し、自身の老いの「みにくさ」や、「みじめさ」を思い知らされる。デカダンス文学といわれるが、この作品は時代のデカダンスを指したものではないようだ。人間の老いという「衰退」と、避けることのできない死という「破滅」、美しい無垢の娘と添い寝という異様な「享楽的」行為で、過去の女との悔恨も結婚も、そして永遠の女性像として母親までも求めているように感じた。

「人生七十古来稀なり」とはよくいったものだ。人生も終わりに近付き、悔いが残ったところで、すでにそれを取り返すほどの力も無い。残り時間は「悔い」と共に、自身の「みにくさ」を思い知らされ、惨めになる。その中でのわずかな救いが、思い出なのかもしれない。良い思い出だけではなくとも、自分自身からの行動の失敗であれば、それはそれで良い思い出になるものだ。

最期には母親が理想の女性像になるのは、川端自身が幼い頃に両親を喪い、縁が薄かったこともあるのではないか。私自身も22歳で母を亡くしたことで、永遠の女性は母親かもしれないと思える。幼い頃から病弱で、二人のネエが四六時中、離れること無く面倒をみてくれた。二人がいなくなったあとに、母親の接し方は二人分以上だったと感じた。

通夜の夜、人気が無くなった部屋の、一人にされた母の布団に潜り込んだ。顔の上の「打ち覆い」を取り、もう冷たくなった母の身体に抱きついていた。ネエ二人が来て、お母ちゃんが笑ってると言った。たしかに母の顔は薄く目が開き、口も少し開いて、笑っているようだった。おもしろいもので、未だに母親には会いたいと思う。36年間を夫婦として過ごした妻よりも、22年間育てられた母親の方が懐かしく、会いたいと思える。

三島由紀夫とサイデンステッカーが絶賛した『眠れる美女』、その深さをあらためて感じられた。作者のゆっくりと流れる時間の中に描かれた女性美、それの横に比べ並べる「老い」と「死」の重みを感じた。

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余談だが・・・、
主人公は67歳、同じ歳を我が身で考えた時に、自営を辞めて一時食品加工会社で契約社員として働いていた。女性の多い職場で、少ない男性陣の中では一番女性社員の中に入り近づき、元気だったような気がする。朝の散歩中にJKから声を掛けられると、まだ嬉しくてドキドキしてる。

60年前の老人と比べると八掛けといわれてるが、確かにそうかもしれない。後期高齢者になろうとするこの歳になっても、逢うことが出来なくなった人を思うと、あの温もりが悩ましいほど懐かしい。

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