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「初日の出とても小さい駅で見た」

伊藤園お〜いお茶新俳句大賞に8歳の子の句が選ばれたと聞いて鳥肌がたった。なんていい句なんだろう。

幅がある句だと思った。いつもは山から見ているのだろうか。何か事情があって今年は小さい駅から見た?しかし残念な気持ちは感じない。小さい駅で見たというのが、また思い出なのだ。技法は単なる大と小の対比だけではない。初日の出という雄大で特別な自然が、駅という普段使う日常の人工物とよく対比されている。これぞ俳句だ。ものすごく少ない文字で、その文字以上の光景がなだれ込むように入ってくる。


4年間日本文学科で色々と学んできて、文学というものは何なのか、分かった気になった。いい文章というものがなんなのか、少し分かるようになった。短歌と俳句に限って言えば、言い過ぎないことが美である。先程の俳句について、選者の人曰く、「初日の出」という言葉は詠むのがとても難しいのだそうだ。分かる。デカすぎるからだ。例えばクラス全員で短歌を作る機会があったとして、「運動会」から始まる短歌は大抵良くない。言及している対象が広すぎる。競技なのか、暑さなのか、熱気なのか、言いたいことが何なのか分からない。大事な文字数を無駄に使ってしまっている。例えば運動会でも応援団について詠みたいなら、


枯れた声絞り応援する君に応え声張る君を見ている


いま9秒で作った短歌だが、このくらい詠めれば中学生なら校内で選定されないか、思い上がり?とにかく、短歌や俳句を作るなら、言及する対象は絞った方が良い。今回は運動会でも応援団でもなく「君」にしてみた。中学生ぽいと思ったからだ。


なぜ中学生が全員で短歌を作る場合を考えて話をしているかというと、私の中学校がそうだったからである。毎年毎年短歌を作らされた。そして合唱コンクールで優秀作品の表彰があった。校内短歌大会がある学校なんて素敵だと思う。私は出来の悪い短歌ばかり作っていた。今の実力なら1回くらいは入選できただろうと悔しく思う。その頃は短歌がなんなのか分かっていなかった。


国語の成績は良かったけれど、なぜいいのかは分かっていなかった。今なら分かる。文章を読んで、文章に書かれていること以外を読み取る力があったからだ。「月が綺麗ですね」という言葉を聞いて、(ああ、この人は愛を伝えたいんだな)と感じるのか、(ふーん月が綺麗なんだ〜)と思うのか、ここが国語ができるかできないかの境目だと、今なら思う。だから読書が好きな人は国語が得意だし、自分で小説を作ったことがある人はもっと国語が得意なんだろう。数学は得意だけど国語は大の苦手だった友人が、俳句甲子園に出場するようになってから国語の成績が圧倒的に伸びたのを、今でも思い出す。中学の国語の先生になる予定の高校時代の友達に、国語の授業について熱く語ったけど、伝わっただろうか。


受験シーズン、出願先選び、私立大学受験、今が佳境なのか、どうなのか、もう忘れてしまったが、とにかく私は日本文学科に進学したことを全く後悔していない。日本文学科に進学して良かったと心から思っている。ブログ部の時点で大学からの回し者なので説得力に欠けるが、本当にそう思っている。就職に弱いとか言われているけれど、そもそも就職に強いか弱いかは本人のコミュニケーション能力次第で決まるので、文系に関して言えば学部学科はほとんど関係ない。文学部が就活に弱いというのはたぶん、文学部に進学する類の人が体育会所属とかではなかったから、パワーを求める企業にあまり刺さらなかったというのが実態だと思う。人で決まっているのであって学科では決まらない。だから、文学部に行きたいのに就活のことを考えて辞めるなんて思っている人がいたら全力で止めたい。4年間も学ぶんだから、好きなことを学んでほしい。大学は専攻した分野のことばかり学ぶから、せっかくなら好きなことで溢れる4年間にして欲しい。私はそうだった。卒業が名残惜しい。社会に出ても好きなことばかりできる会社だといいなあと思う。でも好きか嫌いかだって自分で決めるのだから毛嫌いせずになんでも楽しめるような大人になりたいと思う。短歌の一つでも読んでこのブログを締めたかったが、考えているうちに寝てしまって出来なかった。いつかひっそりと、このブログの後に短歌が追加されているかもしれない。


もこ