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「百億の昼と千億の夜」そのしじまにこそ。

 人生観のコア、といっても大げさだと思わない。数年に一度は読み返し、再発見をしながら、ますますその思いは強くなる一方だ。


百億の昼と千億の夜著者: 光瀬 龍

出版社:早川書房

発行年:1973


 「百億の昼と千億の夜」―このタイトルをつぶやくだけで、ぼくは自分の根底を再確認する。

 初めて読んだ中学生の自分が、どれだけこの小説を理解できていたか、まったく自信はない。
 しかし、読みふけっている最中ぼくのなかには、それまで味わったことのない浮遊感が膨らみ続け、ページをめくる手を止めることができなかった。読み終わったあと、夜空に落ちてゆく錯覚の中をいつまでも漂っていたことを、今になっても忘れることができない。
 この奇妙な感覚の正体はなんだろうと、ぼくは長い間ずっと考えてきた。

 物語は地球に海が生まれたころにはじまり、プラトン、ブッダ、イエスという歴史的人物と神話の神々が入り乱れ、想像を絶する未来までを舞台にしながら、この世界の、この宇宙の、そして神々自らの存在理由が解き明かされていく。SFだからこそ描ける極限の想像力と絶望的なまでにながいながい時間が、この物語の醍醐味でもある。

 ぼくはSF小説も好きだが、SF映画も大好きだ。
 映画の場合、ことエンターテインメント作品にはわかりやすい設定と構成がある。勧善懲悪に加え、主人公がいて、対立する「敵」がいて、葛藤が起こり、解決的結末がある。特にハリウッド製のSF映画の多くは「西部劇」の舞台替え、という構造が多い。「スタートレック」などは西部を宇宙に置き換えた開拓の物語だといえるだろう。
 かつて西部劇は開拓者=善、先住民=敵というパターンがほとんどだった。この構造が変化したのは、ベトナム戦争を経験したのちだ。それまで描かれてきた西部劇から、先住民の側に立った新しい視点は「ダンス・ウィズ・ウルブス」で決定的になり、世界興収No.1のSF映画「アバター」は、まさにそれを踏襲しているといえる。画面の迫力は年をおうごとに凄まじくなっているが、その視点と根幹のパターンはけっして変わらない。カタルシスこそが命題であるからだ。
 「百億~」も対立構造は物語の推進力となっている。あしゅらおう、シッタータ、プラトン連合と、絶対的存在「シ」の命をうけたイエス。ところがそこには、エンタメ的SF映画のような普遍のパターンである「善悪」の対立がない。正義と悪の戦いではなく、あるのは”滅び”というキーワードだけだ。

 本来、仏教やキリスト教という宗教には「救い」という概念がある。仏教では末法の世に現れてすべての人を救うといわれる弥勒菩薩がいる。京都の広隆寺にある国宝第一号の弥勒菩薩像はとてもおだやかな面持ちで、見る人の心を和ませてくれる。
 が、この日本製SFはそれに疑問を投げかける。弥勒の存在こそ、”滅び”を宿命づける証拠ではないのか。56億7千万年後の救いなど、絶望以外のなにものでもない。人類と世界が滅びることを宿命づけた弥勒菩薩とその背後にある絶対的存在「シ」に向かって、あしゅらおうはブッダとなるシッタータ、プラトンと共に立ち向かうというのである。
 ぼくは脳天を殴られたような衝撃をうけた。なんと大胆な発想なんだろう! 
 SFのもつ本質的な可能性は、舞台替えをしただけの空想だけではなく、思考の視座を自由に解放できるところにある。ぼくはこの小説に出会って、SFに対する見方さえ大きく様変わりした気がする。もちろん小説だけでなく、すべてのモノの見方や考え方に影響を受けていると実感する。

 「スタートレック」や「アバター」、「スターウォーズ」も、今も好きな映画だ。だから、もし「百億〜」が映画になったら、どうなるのだろうかと想像した。その妄想を膨らませていた時に、ぼくは自分が絡めとられていた浮遊感の原因に気がついた。
 それは「音」だった。
 この物語にぼくは「音」が聞こえてこなかったのだ。
 SF映画の多くは、宇宙空間の戦闘であっても、効果の為にあえてたくさんの音がつけられている。ぼくたちはそれを無意識に受け入れている。それは本を読んでいるときも同じだ。頭の中で映像や音響を再現する。
 ところが、この気の遠くなる物語は脳内に映像は再現されても、音が聞こえてこない。
 激しい戦いや動き、言葉もたくさん描写されているのに、どこまでも静かでまったく音がない。それが宇宙の深淵に落ちてゆくような喪失感を生んでいたのだ。自分の意識が勝手にそうさせているのかもしれない。
 しかしそうであっても、ぼくには「沈黙と静寂」こそがこの物語にふさわしい気がしてならなかった。もっといえば、作者の光瀬龍氏はきわめて意識的に「静寂」を物語の底に布いたのではないかとさえ思う。読者にとって、読むことがまるで座禅を組んでいる時間であるように。
 ただ、たったひとつだけ、ぼくに聞こえる音がある。

寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波の音は、何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた。

光瀬龍「百億の昼と千億の夜」

 冒頭3行。原始の地球、その海辺によせる波の音。この音だけが唯一、ぼくが読むあいだ、全編すべての背後で低く小さくさざめき続けている。

 「善悪」ではない対立、そして禅のごとくの「静寂」。
 このSFがきっかけとなって、ぼくは東洋思想にのめり込んだ。もっと「百億〜」を理解したかったせいかもしれない。そしてインドや中国、そして日本の思想をたどって行くと、かならずある一点に集約されることを知った。
 「転生輪廻」という思想だ。
 すべてのものは生まれ、滅び、そしてまた生まれてくる。未来永劫、それは続く。ブッダはこの輪廻こそ苦しみの本質であり、その輪から脱することを解脱といった。解脱の為の行為のひとつに、禅がある。
 禅の静寂はまた、日本の芸術の母体でもある。生成と滅亡を繰り返す諸行無常の観念は、日本人に「わび」「さび」という美意識までに昇華させた。「さび」を完成させた江戸時代の俳人・松尾芭蕉は、

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

と、詠んだ。
 うるさいまでに溢れている蝉の鳴声の中にある、絶対的な静寂。
 この句を知った時、ぼくは自分が同じ物語をなんども読み返す理由がわかった気がした。ぼくにとって蝉の声は、波の音と同じだった。「百億の昼と千億の夜」は空想科学小説というより、日本人の美意識に寄り添った思索的小説だったのである。
 カタルシスを求める映画からはほど遠い世界だけれども、ひそやかな芸術品のように美しいとぼくは思う。
 光瀬龍氏はこの美意識に沿って、たくさんSFを発表された。「喪われた都市の記録」「派遣軍還る」「宇宙年代記シリーズ」など、どれも同じ旋律をもっていて、独特の世界観は他の作家に類を見ることがない。そうした地平を拓いた「百億の昼と千億の夜」は、光瀬氏の出発点であり、すべてといっていいのではないだろうか。


 やがてはぼくもこの世からいなくなる。しかし、またなにかの形で生まれ変わる。
 夏の夜、海辺に寝転がり星空を眺めながら、そんなことをぼんやりと考える。波の音を聞けば、からだのなかには、いつもかならずあしゅらおうの物語がよみがえるのだ。

寄せてはかえし
寄せてはかえし
かえしては寄せる波または波の上を、いそぐことを知らない時の流れだけが、
夜をむかえ、昼をむかえ、また夜をむかえ。

光瀬龍「百億の昼と千億の夜」

 ぼくの人生にこんな小説は、ほかに一冊もない。


(2016年記)

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