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似内恵子の裏プロフィール『イバラストーリー』 

裏プロフィールというのは、先日セミナーでお会いした講師の松尾昭仁先生に教えていただいた言葉です。松尾先生はセミナー講師として大変すばらしい方です。ずっと良い影響をいただき続けています。そこで、私も

似内恵子の裏プロフィール『イバラストーリー』 というものを作ってみました。

中学~高校時代
京都ではノートルダムにつぐお嬢様学校「聖母学院」に小学校から12年も在学しました。父に連れていってもらった大阪電気科学館で初めてプラネタリウムを見て、天文学者を志すも、物理ができず挫折します。中学時代にすでに冷戦だった両親の仲が決定的に悪くなり、別居が始まります。こんなことは言い訳にならないかもしれませんが、成績はがた落ちになりました。
文系に転向して、立命館大学法学部に現役合格しました。

大学時代1 
法学部と同じ歴史のある「法律相談部」に入部します。
家族法部会に入り、文化局長を努めます(文化局長とは実はコンパの設定係)このときの人脈は今も大変役に立っています。後輩は皆優秀な法律家になっています。

当時は学園紛争の余波があり、授業時間も少なかったです。まるで先日までのコロナ下の大学のようでした。加えて大学2年くらいから、すでに別居していた父母の離婚騒ぎが始まりました。父が当時交際していた部下の未亡人と結婚したかったので、母に離婚を申し入れたのです。私も何度も家庭裁判所の調停に同席させられました。かなり家庭内がごたごたしていました。法律学はとても好きでしたが、進路についてはいろいろ考えることがありました。在学中に獣医科大学受験準備を始めました。高校生に混じって予備校に行ったり、理科系科目の学力向上にはそれなりの努力をしましたた。なので、理科系が苦手な方の受験には語れることがあると思います。この受験勉強時代に、母が再婚して継父と同居することになります。おかげで家庭内の言い争いなどがなくなり、成績が上がりました。

大学時代2
運良く1年後、大阪府立大学に合格しました。在学中は母の病気などで1年留年しましたが、無事修士課程を修了し、獣医師免許を取得しました。
修士などというと格好よいのですが、家庭の事情で下宿できなかったので往復5時間の通学、電車の中でレポートを書き、無事論文発表が終わったときはかなりボロボロになっていた記憶があります。学業を続けらたのは、家族の応援と恩師、阪口玄二先生のおかげです。

研修時代
卒業後、「とにかくいろいろな分野の仕事を見る」ことを目的に、臨床分野と京都府の検査部門で研修をする機会を作りました。その後、京都大学で教授の実験補助を努めました。意図したわけではありませんが、獣医師として広い分野を見ることができました。ここでの仕事は生化学の知識と技術を得られその後非常に役立ちました。

臨床時代
京都府獣医師会の研修でスカウトされ、宇治市の大和動物病院に就職します。当時の院長は高橋尚男氏でした。普通の獣医科病院に就職したと思ったら、いきなり院長が「来年、宇治市会議員の選挙に出ようと思う」と仰いました。翌年当選され、以後議会で留守勝ちの院長に代わり、4年間副院長を務めました。政治家という職種について間近で知ることができ、この仕事も大変勉強になりました。こちらでは奥様が高校の先輩でいらっしゃったこともあり、子供たちも可愛がっていただきました。また、在職中に盲導犬育成支援のチャリティバザーを行いました。これも高橋氏とご家族のご協力のおかげです。大和動物病院は現在息子さんが二代目院長です。

豊橋時代
夫が豊橋技術科学大学の教員に採用されたのをきっかけに大和動物病院退を職します。豊橋にある家畜保健所で研修をさせて欲しいと頼みこむが、「そういう制度はないです」と断られました。しかし、しばらくして、愛知県職員の臨時採用の話が来ます。試験に合格して、東三河家畜保健衛生所に勤務することになりました。
愛知、特にこのエリアは畜産王国で、京都府とは違うスケールがたいへん勉強になりました。毎日解剖をしていた印象があります。

再び転勤・再度京都に戻る
たいへん気に入っていた職業でしたが、夫の転勤で再度離職を余儀なくされます。このときは、やっと手に入った仕事だったので、根を下ろした土から引き抜かれたような挫折感がありました。

出版へ
気をとりなおして京都府の仕事など受けることにします。京都府の南丹家畜保健衛生所などで勤務しました。ある日「かんき出版」より執筆の依頼が来ました。取材と準備に1年かけ、「こんな動物のお医者さんにかかりたい」を出版。獣医師としてはなかなか会えない、すばらしい先生方のお話を伺えたことが財産となっています。

コロナ下で再度家畜保健所勤務
そのうち、コロナが流行し始めます。どこにも行けない時期が続きます。和歌山県で求人があることを知り、問い合わせたところ面接をしてくださるとのことで、県庁に伺いました。課長と所長が対応してくださいましたが、私との机の距離は3メートルくらい空いていました。帰りの道の駅もどこも閉まっていました。それでも就職した当初は、まだ皆さんマスクをされていませんでした。そのうち、あちこちでクラスターが出たりするようになります。
保健所退職・帯広畜産大へ

畜産大の農場


保健所は半年という話だったのに、後半で延長しないかと言われました。仕事内容を買ってくださってありがたいのですが、継父も病気がちだったので、半年で退職しました。>もっと早く言ってよ!
以前研修で知り合った北海道の獣医師、奥野尚志先生のおかげで、北海道の帯広畜産大学で研修生をさせていただけることになりました。北海道留学です。学外でのお友達もたくさんできました。ご指導いただいた松井基純先生と羽田慎吾先生には大変お世話になりました。本当は半年の予定でしたが、コロナで農場の立ち入りができなくなり、早めに帰宅しました。帯広では学内よりむしろ学外の方と仲良くなりました。

畜産大正面です

保健所再就職から開業へ
今度は和歌山市内の家畜保健所に就職しました。臨床かと思ったら、所内での検査でした。豚熱の感染が野生イノシシにも広がっており、イノシシ血液のELIZA検査が主な仕事でした。何よりありがたかったのは、官舎が隣だったことです。退職後は農水省の主催する、魚病の研修を毎月受講しました。
まだまだですが、2023年3月30日に開業しました。..

と、表プロフィールだけ見れば格好いい経歴も、家庭の事情&夫の転勤の結末であることがおわかりでしょう。特に、女性の獣医師の場合、家族の事情で離職を余儀なくされることが多々あります。そのまま「家でなにもしていない」という方も多く、これでは社会資本の損失ですあるような気がしています。職探しについては、ぜひ私のしぶとさをぜひ見習っていただければと思います。

再度、研究生をする


和歌山に勤務中に農水省の指導で、獣医師にも魚病を勉強させようというプログラムができました。この研修に何度か参加して、下関にある水産大学校の古下教授の研究室で、半年研究生をさせていただくことができました。それまで机上の空論であった養殖や魚病が近いものとなりました。大変に実り多い半年でした。
この年になっても学ことは十分できるし、自分を変えていけることも実感いたしました。

研修を各地でうけています。
水産大学校です。

似内惠子(獣医師・似内産業動物診療所院長))
(この原稿の著作権は筆者に帰属します。無断転載を禁じます。)

似内のプロフィール
https://editor.note.com/notes/n1278cf05c52d/publish/
オールアバウト「動物病院」コラム
https://allabout.co.jp/gm/gt/3049/


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