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日本語を「音」で聞き分けることができるということの大切さ(白頭狸先生著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』を読む)

まずはお知らせでございますが、大塔宮皇統の白頭狸先生と伏見宮皇統の華頂博一様のyoutubeにおける歴史的対談の第一回目の視聴回数が2万回を突破しておりました。

(2) ついに実現!落合莞爾先生登場!真の歴史が明かされる! 落合莞爾氏×華頂博一 - YouTube

youtubeより転載

全9回にわたって語られる、その歴史は、まさしく「真の歴史」と号するに相応しい内容となっており、この動画でしか知ることのできない歴史の深奥を知ることができます。何度も申し上げておりますが、是非とも今回限りではなく、御多忙の御二方ではございますが、もしもお時間がゆるされるのであれば定期的に対談して頂きたいと思っている次第です。

話題を転じまして、今回は「日本語」について書き綴ってまいります。

日本語を読み書きできるということは、それだけで一つの大きな教養であり財産であると思いますが、くわえて日本語を母語としていることのありがたさというものがあります。

それは日本語を「音」で聞き分けることができるということです。「音」で聞き分けることができるということは、言葉の意味が分からなくても、音を聞くことで”何となく”意味が分かるということです。それはとりも直さず日本語を「言霊(ことだま)」として聞き分けることができるということです。

どの言語も同じですが、ある言語を母語として生まれ育った人でなければ、その言語の持つ微妙な意味合いや、言語の奥深さと言ったものを感覚としてつかむことはなかなかに難しいものであると思います。ですので、日本語を母語として生まれ育った人は日本語を聞き分けることができるという一つの大きな能力をすでに身につけていることになります。

日本語を母語として生まれ育った人に是非とも触れてもらいたい書物と言えば『古事記』『日本書紀』『万葉集』であるかと思います。誰でも名前は聞いたことがあるかと思いますが、その中身はと言いますとなかなかに知っている方はおられないのではないかと思います。

とくに『古事記』は、日本国民に、日本という国はどのような国であるのかを知らせるために著された書物ですので、日本語を母語として生まれ育った人には是非とも一度は朗誦していただきたい書物です。

その際に大切なことは言葉の意味をすぐに理解する必要はないということでございます。江戸時代の寺子屋では子供たちが孔子の論語を「子曰く」と言って朗誦しており、論語の意味を寺子屋の先生が講釈しておりましたが、おそらく子供たちにとっては意味の分からぬものが多かったのではないかと思います。それでも論語を朗誦することで、論語を覚えることができますので、成長ともに知識や経験を増やしていくなかで、ふと論語の意味を理解する瞬間というものが来るものです。

『古事記』の朗誦も同じように、はじめから言葉の意味を理解しようとするのではなく、ただ「言霊」として『古事記』を朗誦することが大切なのではないかと思っております。その朗誦をとおしてどのように『古事記』の意味を咀嚼するかは個人の器質や経験によれば良いのであり、一意的に解釈する必要はないのではないかと思っております。

ですので、ある人にとっては『古事記』は歴史書であり、あるいは宗教書であり、あるいは文学書であり、あるいは数学物理を著す書として読むことができるのではないかと思っております。『古事記』は、現代のように学問が細分化される前に著された書物ですので、『古事記』を編纂された方は学問が細分化される前の統合的な学識によって『古事記』を著したはずですので、読む人によって多義的に解釈できるような構造になっているのではないかと思っております。

ここまでつらつら述べておきながら、かくいう私も生まれてこのかた『古事記』をしっかりと朗誦したことがない身なのですが、これを機に『古事記』を朗誦してみようと書棚を探したところ、あると思っていたはずの『古事記』が書棚にありませんでしたので、さっそくアマゾンにて中古品を注文することといたしました。

今まで『古事記』を読んでこなかったのは、ただの怠慢と言えば怠慢ですが、日本語は言霊であり、意味をあれやこれやと考える前に、まずは言霊として朗誦することが大切であるとの認識に至らずして『古事記』に触れると、いたずらに言葉の意味を理解しようとしてかえって『古事記』の持つ言霊の美しさや奥深さを体感することが損なわれていたのではないかと思っております。ですので、上記のような認識に至ってはじめて『古事記』に触れる時期が到来したのであると前向きに考えております。

(白頭狸先生のnote記事より転載)

頓首謹言

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