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五月雨登校と、絡まった糸のような想い。

息子が小2の頃。
学校には、週3回程度通っていた時期があった。いわゆる五月雨登校というやつだ。

その頃の息子は、学校に対して、
「行きたいけれど、行けない。(けれど行かなくちゃいけない)」と思っていたのだと思う。

今は
「辞めたい訳ではないけれど、今が楽しいから学校には行かなくていい」に変わった。

五月雨登校の頃、
私は親向けの本を山のように読んだ事がある。

大体の本には


お子さんが元気になり、幸せに生活するためには、まずは本人が自信を取り戻せるように、
親は学校に行けない我が子も丸ごと受け入れてあげましょう。


と書いてある。


これはもうその通り、ということはよくわかる。

息子は確かに、さまざまな想いが絡まって自信をなくしていた。私も息子に幸せになって欲しい。


身体の調子が悪いときは行かせようだなんて思わなかった。

でも、体も気持ちも少し元気になってきて、
五月雨登校する我が子を見ていると、
「もう少し学校に行き慣れたら、
もしかしたらまた登校できないかな?」
と思っていた。

学校でも、
「好きな教科だけでもいいから、きて」と言われたし、そのために下準備をしてもらったこともあった。
実際に、それで行ける気持ちになる子もいるのかもしれない。

でも、息子はなんとなく疲れてた。

子どもが学校に行かないことを
心から受け入れるって
「頭でわかっちゃいるけど、できない」
ってやつだった。

不登校専門カウンセラーなんて、人にも相談して
「今は登校、押しどき?引きどき?」なんて聞いたりもした。
でも、子どもを見てるのは私だけ。
そのカウンセリングは1回でやめた。

自分の何がどう変われば、心の底から
「学校に行かなくていい」と言えるような気持ちになるのか。
当時の私にはわからなかった。

そんな風に戸惑うこと。
今振り返っても、「そりゃそうだよ」と思う。

だって、学校に行くことを疑いもせずに、
学校に毎日通ってきて親になった私には、
学校に行かない生活がどんなものなのか、想像もつかないのだもの。

今まで当たり前だと思っていた価値観を変えて、
心の底から、全く違う価値観を信じろなんて、
頭で分かっても、すぐにできるわけないのは、
人間だもの。当たり前のことだ。

だから、今は思う。

そんなふうに思う自分を
「そりゃ、戸惑って当然だわ〜。」と、
まずは、自分で受け入れてあげればよかったんだ。

「親が変わればいい」という言葉のプレッシャーを
「私が変われないからいけないのか」と
書き換えてインプットし、
やっぱり自分を責め始めていた私に対して、

「そりゃ、変わろうとしてすぐに変わるわけないわ!笑」
と言ってあげたい。


フリースクールに通って、息子は笑顔が増えた。

彼が自信を取り戻していく様子を見るたびに、
私は少しずつ、

「学校じゃなくてもいいのか」と心から思い、
「学校に五月雨登校していたときは無理してたんだ」と気づき、
「自分で行くと選んだ場所では、こんなに生き生きとするのか」と驚き、
「結局自分で決めないと、親が促してもいいことないなあ」と悟った。

これが、現実だ。


そして、今も将来を考えると不安もあるし、
「そのうち本人の学びたい気持ちと合う学校や場所があればいいな」
という気持ちもある。


フリースクールから紹介された中学校の情報は調べたりもしている。


でも今の学校には、
もう卒業まで行かないかもしれないと
漠然と思っていて、それをぼんやりと受け入れている。

そして、何よりも違うのは、
「本人がそれを自分で決めるしかないな」と、
今の段階では、思えていることだ。

また先に揺れるかもしれないけど。


揺れ動く親心も、あたりまえだと思う。
だって、そんな風に思えるまでにだって、
親だって、たくさんいろいろ悩まないと、
心からそう、思えなかったんだもの。

そして親が出来ることは、そんな自分に優しくしてあげることを。
そんな気持ちになった自分を、認めてあげることだと思う。


「学校に行く意味ってなんだろう」とか
「学校は何をするための場所なんだろう」とか
教育哲学、みたいなこともさんざん考えた。


一個一個全部、無駄じゃない。
その時に読んだ本、感じた想い、考えたこと、
変化した自分。
それら全てが今の自分を救ってくれている。

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