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ナチス・冷戦から自由を求めて/プラハ、チェコ〜10000kmのヨーロッパ旅行〜

はじめに

プラハ2日目。
プラハの旅は、僕がナチスの歴史、ユダヤ人迫害の歴史を目の当たりにするきっかけとなる街でした。すごく意義深い旅であったと同時に、人類に失望する旅の始まりでもありました。

これまで、この旅行の流れをNoteで共有させていただきていましたが、プラハからポーランドはナチスのことについて書ければと思っております。
それほど旅の中でもすごく辛い時期で、考えさせられることが多かった時期でした。

(実際は前回のプラハの観光と日を同じくする部分もありますが、辛気臭くなると嫌なので、関連してまとめさせてください。)

旅程

アテネ → イスタンブール → ローマ → フィレンツェ → ヴェネツィア → ブダペスト → ウィーン → プラハ → ワルシャワ → フィンランド → ストックホルム→ ドルトムント → ベルリン → フランクフルト

ユダヤ人地区

まず、プラハに来て衝撃的だったのが、ユダヤ人地区が残っていたことです。プラハの中心の方に行くと、ナチスにユダヤ人が迫害されていた時期のユダヤ人地区に訪れることができます。

シナゴーグという言われるユダヤ教の礼拝堂があり、現在は、ガザとイスラエルの戦争において被害に遭っている、ユダヤ人の写真が貼られています。

そして、第2次世界大戦から冷戦にかけて翻弄されるチェコの歴史は、街に歴史として刻まれているのです。

国立ハイドリヒ事件の英雄記念館

ここの窓から地下に水を流し込まれ、銃痕の残るこの壁は、記念碑となっています

<歴史のおさらい>
チェコスロバキア解体:

1938年、ミュンヘン会談により、ナチス・ドイツはチェコスロバキアのスデーテン地域を併合し、チェコスロバキアはナチスの脅威に晒されることとなります。

ナチスからの独立とナチスの暗殺計画と実行:

ナチスによる支配は凄まじいもので、親衛隊隊長のラインハルト・ハイドリヒ総督は歴史的建築のプラハ城に本拠地を構えるほどでした。
一方で、その後もチェコの人々は抵抗を続けました。

そんな中1942年、チェコの共産主義者と反ナチスのレジスタンス運動家たちは、プラハでナチス高官ラインハルト・ハイドリヒ(通称:ベーメン・モーラヴィア保護領総督)の暗殺計画を実行しました。

計画実行後の報復は非常に厳しいものとなりました。暗殺チームのメンバーは、潜伏生活を送っていました。しかし、あるメンバーの裏切りによってナチスに位置が露見してしまいます。

彼らが急いで逃げ込んだ先が、現在のプラハ1区に位置する聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂でした。この部屋は、実行チームのメンバーが絶体絶命の状況に追い込まれ、自決した場所なのです。

地下にある部屋は、彼らを称える博物館となっています。

独立のために戦った英雄たちは、SS隊との戦闘の中で地下の空間に逃げ込むことになりました。地上の窓から水を流し込まれ、SS隊に追い詰められた絶望を感じることができます。

リディッツェ記念館

この暗殺計画は成功し、ハイドリヒはその傷がもとで死亡致しました。しかしながら、その後の報復は非常に厳しいものとなり、勘違いからプラハ郊外にある小さな村、リディッツェを標的に大報復を行ないました。

その結果として、村の男性は全員処刑され、女性や子供は強制収容所に送られました。終戦後生き延びられたのは女性153人と子供17人だけで、人がいなくなってしまった村はナチスSS隊によってすっかり焼き尽くされてしまったのです。

僕は行くことができませんでしたが、プラハの郊外には、こうした歴史が残っています。

これらの歴史は、だいたい以下のサイトから引用しています。
詳しい歴史の流れはぜひこのサイトを確認してみてください。


若きプラハ市民ヤン・パランツの物語

チェコの歴史は、事実ナチスからの支配だけではありませんでした。ナチスから解放されたかと思えばソ連による共産主義政権に支配されるようになりました。チェコの独立にはまだ壮絶な歴史が残っているのです。

ソ連による占領とプラハの春:

第二次世界大戦後、ソビエト連邦はチェコスロバキアを占領し、共産主義政権を樹立いたしました。しかし、1956年のスターリン主義からの一部の緩和がチェコスロバキアにも影響を与え、1968年にはプラハの春として知られる改革が始まりました。

しかしながら、この改革はソ連とその同盟国たちからの激しい反対を招きました。1968年8月、ソ連軍とその同盟国はチェコスロバキアに侵攻し、プラハの春は終わりを迎えました。この侵攻により、多くのチェコ人が抑圧され、自由が奪われました。

厳格な共産主義の犠牲者の記念碑

厳格な共産主義政権の歴史を記念碑も残っており、そうした歴史とともに、一人の若い英雄の歴史があります。

プラハの春の終焉と青年の物語:

この中で、若きプラハ市民ヤン・パランツの物語が特筆されます。ヤン・パランツはプラハの春の終焉後、1969年1月16日に独ソ戦の犠牲者を追悼するために、ヴァーツラフ広場で自らを焼身自殺し、その行為は共産主義政権に抗議する象徴的な行為として世界中に衝撃を与えました。

その歴史は国民の記憶に深く刻まれ続け、焼身自殺をした場所は、プラハの中心地にひっそりと残り続けております。

他にも、町中に彼を弔う記念碑はたくさんあります。ぜひ訪れてみてください。

番外編:フランツ カフカ博物館

番外編として、プラハはフランツカフカの街としても知られています。生前は「変身」など限られた本のみで知られる存在だったカフカは、生涯の大半をプラハで過ごしました。プラハ城の近くの黄金横丁では、プラハの家を見ることができます。

カフカが有名になったきっかけは、戦後はサルトルやカミュといったフランスの実存主義者たちがカフカ文学に注目し、彼の文学を実存主義文学の先駆として位置づけていきました。

人間存在の不条理などについて描かれた作風が人気で、現在では二十世期を代表する作家と注目されています。

最後に

おそらく僕は勉強不足だったと思います。アウシュビッツに行くことが決まっていた中で、ヨーロッパのユダヤ人迫害の歴史について詳しく調べることをしませんでした。

ユダヤ人差別の歴史

僕はユダヤ人差別は、ナチスによって初めて迫害を行われたと思っておりましたが、実際に調べるとだいぶ異なります。
ユダヤ人を強制移住させるゲットーは1400年台から行われていましたし、ペストが大流行した際にはヨーロッパの人口の3分の1以上が被害となり、そのスケープゴートとしてユダヤ人迫害が各地で発生しました。

第2次世界大戦次のオーストリアの例を見てみましょう
「ドイツでは迫害が徐々に進んだ。5年かけて1日ずつ進んでいったのだが、オーストリアでは24時間でユダヤ人から権利が剥奪された」と言われています。
オーストリアは確かにナチスによって支配されていましたが、本当に被害者だったのでしょうか? ユダヤ人迫害を謳うナチスの政策ではありましたが、オーストリアでは1日で完了してしまう。

戦争の加害性

戦争に巻き込まれた民族の加害性というのは、わからないものです。オーストリア人が積極的にユダヤ人の通報に参加したとして、戦後処理ではヒトラーが悪いとされます。同じ国民のドイツ人だってどこかでホロコーストについて知っていても、どこかヒトラーを盾にして被害者ヅラしてしまう。

しかしこれが、ヨーロッパに古くからあるユダヤ人差別の根源的な問題なのではないでしょうか?

これらのサイトでは、ナチス以前のユダヤ差別やオーストリアのユダヤ人排除の詳しい話を見ることができます。ヒトラーはユダヤ人差別を、ドイツ人の愛国主義を煽る道具として利用したとされています。

僕はユダヤ人差別の歴史やその中での争いを見る中で、ヨーロッパの歴史は壮絶なものがあり、民族が混在する今日のヨーロッパでどうしてこうして笑って過ごせているのかわからなくなるほど、ショックなものでした。

ぜひみてみてください。

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