守破離 生き方への姿勢

前回のBlogにて、ほんの少し「守・破・離」という言葉に触れました。

一般的に「守・破・離」とは、茶道や武道の修行のプロセスを3段階で表したものとされています。
守は「基本や型を身につける段階」、破は「既存の型を破り発展させる段階」、
離は「基本や応用から離れ、独創的かつ個性を発揮する段階」を指すと言われています。

もとは千利休の訓をまとめた『利休道歌』にある、「規矩作法 り尽くしてるともるるとても本を忘るな」
を引用したものとされています。
※世阿弥の風姿花伝にも、同様の「序・破・急」という言葉があります。




多くの人は、社会においてある程度経験を積むにつれて、自信もつき一家言をも持つようになります。
これは決して悪いことではありません。

さて安定した状況におけるバージョンアップをする「改善期」と、
出来上がった枠組み自体を飛び出し新しい形を創造する「革命期」はあらゆる歴史の中で相互に繰り返し、
この変わるタイミングを、私達は『パラダイムシフト』と呼んでいます。

ただ、この『革命期』においては、どうしても試行錯誤の連続となってしまい、
時には混沌とした状態になることは避けられません。

今の日本は、未だこの革命期に至らず「改善期」なのかも知れません。

人の成長においてもこのパラダイムシフトは都度起こるはずで、これによって人は明確に成長をします。

ただ残念ながら、多くの人間がこのパラダイムシフトをおこせず「改善期」を継続したままの状態であることが多いのです。
結果として、「大衆の反逆」的な状況にもなってしまうのですが。



私がコミニケーションを取ることが多い、デザインや食の世界でも同様なことが起こっています。
そもそも、「アート」や「デザイン」と言う言葉さえも正確に理解されることなく、さも高尚で価値あるもののように取り上げられていますが本来は異なります。

※興味のある方はギリシャ神話やプラトンの「国家」第10巻を参照ください。
※学問分類において、自由学芸(アルテス・リベラーレス)と呼ばれるものが、
 基本的な文法、弁証法、修辞学の三科と、音楽、算術、天文学、幾何学の四科からなっていおり、
 美術が職人的立場を脱し、自由学芸と肩を並べるようになったのはルネサンス期になってから。


学生時代、古事記や万葉集はもちろんイーリアスやオデュッセイアなど、
様々な時代に心躍らせたものです。
それは文学に限らず音楽や絵画などにおいても同様でしょうか。

お好きな方であるならば、少なからず同じような経験をされた方は多々いらっしゃることでしょう。


 

 



志学に始まり、而立、不惑を経て知命さえも過ぎた今、
未だ迷うこともありますが、かつて昔を思い起こし、アートやデザイン、芸術に関する
同じような問答、同じ感受性からの当意即妙な感覚的口頭に出会うことがあります。

そんな時、対象者とは、ディベートでは無く、あくまでもダイアログに近いものになります。
時にこれらは、一般的に頭の良い人間の興を惹き、一層の探究心を持たせることもあります。


そしてその人間との現実の日々が、如何に困難かを忘れ、
上等な生活日々を、自分たちは特別な日常を過ごせるのかも知れない、と、ある種 魅惑的な未来を想像します。

若い日にそれらは、危険なリスク愛ではありますが、
年月日々に伸びしろを伴うものでもあります。

   



しかしながら!
不惑を過ぎ、人生の後半に見る夢では無いように思います。

快楽と
勉学と
想像と


いわゆる逃避、現実、自由の
3タイプに分けたとき、
私もそうですが、前述した内容にあてはまる人は限りなく「想像と自由」の人間であることでしょう。


そして時間と共に成熟して、
具体美や物質美、心を守るあれこれから離れます。
まさに守破離、ですね。


その後に求めるものは、かつての具象美への一心一眼では無く、
もはや次の景色です。


しかしながら、多くの人が
最初は同じステージを歩いたのでしょうけれど、
いまだ夢のシャボン玉の中にいて、その中に居る自分自身が好きで、
時には悩みながらも、心地よく委ねて居るよう感じます。


本来、人はみなそれぞれのprincipalから次の場所へ行き、次のsomethingを見つけます。

私はもちろんのこと、ある一定の年齢に達した多くの人は
既に次の景色を見ている事でしょう。



ですから‥

青い林檎のような、
程々硬くてpureな信念には、
微笑んでも、理解ある同意はし難いのです。


もし社会において、会社において
年配の方や上司との理解が得られない場合、こういったケースは芸術云々の話に限らず
多々あるかと思います。


全てではありませんが、転職を繰り返す方にも同様の傾向がみられます。
それぞれが、若い時分から「彼」「彼女」であり、
そして、深さを得はしても留まり続け、次の景色を求めない・・・




だから‥
魔法のような
「美」というものに、
「型」や「モノ」に、
さほどの意識無くも、固執するのかも知れません。


道端の、雨に打たれて張り付いた、一枚の紅葉の葉っぱに勝る美しさは、


それに代わる美しさは、
舞台にも、絵にも、茶碗にも、無いと、心から思います。


それらは、ただひたすら、
至るまでの「型」であり、
「モノ」であると、ただ道のりであると思うのです。

30代を過ぎ、40代にもなって、まだ次の景色を見ていない「彼」「彼女」たちは、
年齢から言えば、道のり途中までが解るがゆえに、そこが何とも残念なのです。


「守・破・離」において、自身が気づかず「守」で漂っている人のいかに多い事か

物や人に対するのではなく、自然を含むあらゆる本質に向き合う事ができた時、ようやく次の舞台に進むことができます。

望むか望まないかは本人次第ですが、
次のステップへ進むことが出来た時、世界は広がり、生きることはもっと穏やかに自然体で楽しむことができることでしょう。

そして、それは個人だけではなく、
本来の社会や会社におけるリーダーや経営者にも求められるはずの事だと思います。



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