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好きな人の話(4)

0.朝
 皆さまこんにちは。こんにちはといっても今は朝の9時でバイト先のバックヤードでおにぎりを食べつつ書いています。寒くなってきたなと感じる毎日です。もうすぐ出ないといけないので今日は合間を見てこの記事を書き上げれたらと思っております。

1.高校3年生、救いが少なすぎる。
 高校3年生についても色々あったりはしたのですが、この記事の趣旨と関連が薄いものもあるので端的に3点ほど話したいと思います。
①後悔とこじらせ
 前の記事でお話しした通り私はBと同じコースから外れることにしました。3年の始業式の日、2年のときに同じクラスだった子たちからは腫れ物扱い(だなと私感じたのですが)でした。たしかに客観情報だけだと私は成績が振るわなくてコースを変えられたなんか可哀想な奴とも言えましたのでこれは予想してました。それでもやはりあのコースから逃げれてよかったなと思っていました、最初の方は。
 丁度私が高校3年のときはコロナが流行し始めた年だったので4月はほとんど分散投稿、自宅学習みたいな毎日でした。大した馴染みのないクラスだったのでそれも悪くはなかったですね()。
 ただ、5月、6月になると通常授業が再開されて色々な規制はありましたが従前の生活に戻りました。そこで感じるのですね、「つまらないな」と。クラスには大して仲のいい男の子がいなかったので、とても退屈でした(もっとも、何故かよく絡んでくれる男の子が1人いてその子は今でも連絡を取る仲です)。隣のクラスの前を通る度にBがいるのを横目で確認して「話したいな」と思う毎日。自分で放り出しておきながらやっぱり間違ってたかもと思う、幼稚すぎて我ながら情けなかったです。
 ただ受験期でもありましたからわざわざ積極的な約束を取り付ける気にもなれず、ただただ無益な毎日を過ごしてました。たまに廊下ですれ違うBとの絡みだけが学校に行く目的だったようにさえ感じます。
②進路が決まらない
 当時は文学部志望でしたがそれも特に理由はなくて、なんとなく面白そうだからというだけでした。今思えば私にはある程度未来のビジョンが必要だったのかもしれません。あの当時はもう全てがどうでも良かったです。ただ進学に際して生きづらい地元から逃げれたらそれでいいやと、それだけでした。当然成績も振るわず、それなのに勉強しようとも思わず、毎日が消化試合でした
③担任が曲者
 曲者といっても悪い意味はありません。むしろいい意味です(?)。担当は世界史で、とても授業のおもしろいおじいさんでした。ただやたらとリベラル(というか極左とさえ感じる)思想の持ち主で、明らかに教員らしからぬ発言もたまにあって、私はそれも含めて彼の話が好きでした。2年生まで世界史は嫌いでしたが形勢逆転、一番好きな科目に躍り出ました。これは私の数少ない高3期の収穫です。

2.受験と卒業
 僕がどんなに実りのない生活を送っていても時間は流れていきます。2月に国立二次を受けてあっという間に卒業しました。(当時は毎日が苦痛で長かったですが、、、。)
 結局卒業式でさえもBと写真を撮ることはおろか話すことも叶わず、私はこれから一生彼と関わることなく死ぬのだと、そんな風に思っていました。Cとのいざこざで嫌になってインスタもアカウントを消していたのでそういう繋がりもありませんでした。
 そして卒業式後の3月のある日、前期で受けた大学から「落ちてますよー」と宣告(私が自分でホームページを見ましたが())。
 前期で決めたいと思っていたので当初志望していたところより難易度の低いところを選んだのですがダメでした。ただ正直このときもう私はそんなことどうでもよくて、後期を受けないといけないなんてダルいなくらいにしか思っていませんでした。
 ちなみにこれは本筋から外れるのですが私の生家はそこまで裕福じゃないというかなんなら貧乏だったので進学に対して母はそこまで前向きではありませんでした。当然私立は受けれませんし国立に行っても奨学金でやっていくんだよという、そういう感じです。進路は大学進学が99%の高校ではあったので当然周りはゴリゴリに私立も受験してる子ばかりで、家の格差を感じざるを得ませんでしたね()。片親家庭だったのでまあそこも恨んだと言えば恨みましたよね、、、。このあたりの話はまたしたいですがとりあえずこのあたりで。
 そして後期を受けてそこは無事受かりました。

3.担任に泣かされる(?)
 前期落ちたときに担任に連絡したら、「まさかだったね、、、とりあえず切り替えて後期受けておいで」という感じでした。そして言われるがまま後期を受けて(私が選んだのですがまさか使うハメになるとは思っていませんでした。見通しが甘い、、、)、受かったので担任に直接報告に行きました。
 すると世界史の担任の方が(私の母校は担任が2人設置されるようになっていて、もう1人は英語科でした)、「で、行くの?」と。「、、、、え?」
 聞いた直後は呆気にとられてしまいました。しかし聞いてみると、「ろーるずくらいの力ならそこじゃなくて最低でも××くらいは目指してもう一回チャレンジしたらいいと思うけどね」と。当の私は後期で受かった大学に全く気乗りはしなかったものの、早く大学生になって新しい環境で生きていきたかったのでいわゆる浪人はしないことにしようと思っていました。しかし担任D(世界史の方)からそんなことを言われた私は途端に悩み始めました。担任E(英語の方)も担任Dと同じ意向のよう。
 本当に残酷な奴らだと思いました。実際私だって前期で受けたところに行きたかったし、もう一度頑張ってみることは考えました。でもそれをするに足る覚悟も目標も何もかもを私は持ち合わせていませんでした。だから諦める。でも改めて担任に持ちかけられると揺らいでしまう。そんな自分。
 そして私は2人の担任の前でわんわんと泣く羽目になりました。章タイトルで泣かされたと書いてますが私が勝手に泣いただけです。担任DとEに宥められ、近くにいた高校1年生のときの担任(とても為人がしっかりした方で私の尊敬する人です)にも慰められました。
 結局紆余曲折はあったものの私は後期で受かった大学に進学することにしました。親とは散々揉めましたし担任方や諸先生にもご心配をおかけして本当に酷い有様でした。あんなに泣いたのは高校生以降で最初で最後な気がします。
 私の願いはとうとう叶わず、Bに思いを告げることもまた遊ぼうねとも言えず終わりました。もはやこの頃はBとどうなりたいのかも分からないけど、漠然と離れ離れになるのが寂しいという、そういう感じでした。
 ところがなんの悪戯なのか、後期の大学に行くことにしたと先生方に伝えた帰り(たしかその日でした)に駅でBと会いました。隣には彼女さん。ただでさえぐちゃぐちゃの気分がもっと歪な形になった気がしました。少し話すことができたのですが、神様がいるとするならこれが最後のチャンスだよと、そう言ってたのかもしれません。でも私は取り留めのない話しかできず、何にも言いたいことは言えず、そのまま別れました。
 
4.次の記事などについて
 本当は高校卒業後の1年間についてもこの記事で書きたかったのですが結局色々思い出されてそこまで書ききれませんでした。次の記事で高校卒業後の1年間についてお話ししたいと思います。
 毎度毎度自分でもよくこんなに過去の話をつらつらと垂れることができるなと思うのですが、多分ずっと誰かに話したかった(伝えたかった)のかなという気がします。なんだそれ自分のことなのに他人事みたいだなと言われそうですが、自分の気持ちって意外と自分でも分からないものだと思ったりします。ただ自己分析が足りてないだけかもしれませんが、、、。
 ともあれ、本稿もお読みになられた方がおられましたらお読みいただきありがとうございます。一応の計画では次回で高校卒業後の1年を、さらにその次の記事で次の1年についてまとめて、このシリーズ(?)はひと段落にしたいと思っております。もし良かったら次もお読みいただけますと嬉しいです。帰りの電車内より。

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