読解の補助線 今村夏子『あひる』
今村夏子『あひる』
私がいま一番好きな作家は今村夏子です。
その傑作短編が『あひる』。
今回、読解の補助線と題して、読書メモを作ってみました。
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「小説に込められた強大な熱量にねじ伏せられたかのようで、
読後しばらく生きた心地がしなかった。」
(金原ひとみ、小説『ハンチバック』に寄せて)
「小説に込められた静かな不穏さが背後にぴったりとくっついているようで、読後しばらく生きた心地がしなかった。」
(ジュラシック幼稚園、小説『あひる』に寄せて)
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あらすじ
登場するのは、退職した父と、母、そして、資格試験に向けて勉強中の「わたし」の3人家族。物語はある日、前の飼い主が事情により飼えなくなってしまった、あひるの「のりたま」を引き取るところから始まる。
あひるを一目見に近所の子供達が集まってくる。やがてこの家を、のりたま見たさに学校帰りの子供たちが訪れるようになる。「話題というものがなかった」一家の食卓は、子供たちの話題でいっぱいに。弟が巣立ち、静かだった家がだんだんとにぎやかになっていって…。
→「あひる」は、皆から愛される存在で、「わたし」の両親は、弟が戻ってきたみたいだと喜んでいた。暫くすると、「のりたま」は、力尽きて死んでしまう。でも、「わたし」の父親は、どう言うわけだか、「のりたま」が、死んだことを告げずに、似たあひるを仕入れてきて、「のりたま」が戻ってきたとして、平和を取り繕う。実は子供達の来訪を継続させるために、両親がこっそり衰弱したあひるを新しいあひるに「交換」しているらしい、という残酷な現実が次第に分かってくる。「のりたま」が、3度目の死を迎えると、弟夫婦に猿にそっくりな子供ができて、同居することになる。
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①平易で、簡単な言葉で紡がれる、想像しやすい物語。そして、不穏。
・意識した時には既にひたひたと読み手に迫っている得体の知れなさが、終盤に向かうにつれて広がっていって、この不穏さの正体は一体何なのだろう、とはじめて立ち止まらせる。
・読み進めるにつれ、描かれている状況に対し少しだけ不安を抱くのだが、そのときにはそこで語られている一字一句がすべて咀嚼されて入りこんでいる。
・差し込まれるワードで、不穏さを伝える。「のりたまの”復活”」「宗教」「神棚に祈った」「猿のような弟の赤ちゃん」「両親はここのところずっと笑顔だ」「工事がはじまると同時に潰される、のりたまの小屋」「肉付きがよくなっている弟。奥さんも仕事が忙しいから、体調管理などする余裕がないのかもしれない」
・突然現れる、ふたりの子供
・誕生日会をボイコットされた当日の真夜中に現れ、カギを探すものの見つからず、大量のカレーとケーキを食べ、突然消えていった男の子
・三匹目ののりたまを墓に入れて祈っているときにあらわれた、三輪車に乗った女の子。「のりたま」が3匹とも違うあひるであったことを見抜いて、初めて指摘した女の子。三輪車に乗る年齢の子がひとりで…?
→現れるふたりの子供、両親の不在、この世のものではない?
②交換可能性
「家族は、変えられない唯一の人間関係」とか「子どもは宝」など、「かけがえのない存在」としてよく言われる。「ペットは家族だ」と、いう人もいる。実際、その通りである人もいる。(そのほうが多数である。)
が、そうでない場合もあるのではないか、とこの小説はじっとりと迫ってくる。
何かを「かわいらしい」とか「愛らしい」と思う感情には、確実に利己的な意味合いが潜んでいる。その利己性が、「寂しさ」を埋めるためからくるところ、というまでにとどまる凡庸さを超えてくる。
この人たちは「結局なんでもよいのではないか?」という、思考停止な感じ、タガが外れた感じを徐々に見せてくる。そして、彼らと私たちの間に、どんな確かな実線を引くことができるのか、私はわからない。
本当の意味で「愛」をもって、かけがえのないものはなんなのか?
果たしてそんなものは、本当に存在するのだろうか?
さらにそのうえで、私たちが「愛」するものに、私たちは何を要求しているのだろうか?
そこに、根本的に大きな、むき出しの人間の本性があるように感じれてならない。
③「あひる」とはなにか?(まとめにかえて)
「あひる」とは、
・「面倒のかかって、かわいらしい存在」であり、かつ、その存在よりさらに「面倒のかかって、かわいらしい存在(モノ)」をつれてくるモノ。
・新しい、「面倒のかかって、かわいらしい存在」が登場した瞬間に、関心を寄せられなくなるモノ。
……いや、そもそも、「面倒のかかって、かわいらしい存在」であっても、彼らの名前は記憶されていない(「のりたま」も誕生日会で祝われる子供たちも)。
よって、空虚な寂しさを埋めるためだけに要求される存在のこと。
劇中での「あひる」:のりたま1~3、弟、弟の孫、家にあらわれる子どもたち、のりたまの墓(おそらく孫の登場によって、増築が決まり、墓は壊される。)
劇中での「あひる」ならざる存在:宗教にはまっている両親、「わたし」
「わたし」とは、すでに「面倒のかかって、かわいらしい存在」ではなく、「面倒のかかって、かわいらしい存在」を連れてくることもできない存在。家族からは、名前も知らない子供以下の存在。弟からは、無視される存在。
「のりたま」を悼む、という行為さえも、壊される墓を暗に示すことで、空虚な寂しさを埋めるためだけに要求されたことであることが突きつけられてくる。
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