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【うつと私】受験とうつ病にもがいた高校三年の時。

高校三年生の6月ごろから、本格的にうつの症状が出ていた私。
8月ぐらいから11月にかけては、いま考えても地獄のような日々でした。
ほんとに毎日しんどかった。
今考えると、あんなに必死にならなくてもよかったんじゃないと思うくらい、きっとぎりぎりで生きていたと思います。


私の高校三年生に待ち受けていたのは、大学受験でした。
地元でそこそこの進学校に通っていたため、大学進学率99%。
「大学に行く」ことが当たり前の環境だったので、私も当たり前に受験するんだと思っていました。
しかも、高校二年生のときは成績が悪くなく、三年生では「国公立大用の進学文系コース」のようなところに配属。
レベルの高い環境でした。

でも、家庭のこと、部活のこと、将来のこと、自分の体調。
たくさんのことにもみくちゃにされ、次第に学校に行けなくなったり、原因不明の体調不良で倒れたり。
高校三年の五月頃から本格的に精神科に通い出し、いろんな薬を飲みました。
漢方、睡眠導入剤、睡眠薬、体内リズム矯正用の薬、めまいを止める薬、血行改善などなど…
また、学校とは、父親と先生が何度も面談をしていました。

私はもう、毎日毎日がしんどくて、辛くて、なにも感じませんでした。
学校に行くのも、ごはんを食べるのも、お風呂に入るのも、全てをしたくなくて、とにかく寝たかった。
不眠で、毎日夜怯えて眠れなかったから、日中横にならないと辛かった。
周りがどんどん前に進む中、自分がどんどん置いて行かれて、遅れていった。
私だけが、ひとりぼっちだった。


家族との関係に悩んでいた私は、しんどかった中で、
「大学に行ったらその分親と関わり続けなくてはならない。それなら、就職して、経済的に自立した方が離れられるんじゃないか」
そう思い、父親に、就職したい、と述べました。

父親はこう言いました。
「今の時代大卒じゃないとどこも雇ってくれない」
「俺は高卒で苦労したからそんな思いしてほしくない」
「時間かけていいから高校は卒業して」
「きりしまちゃんの今の経験が、絶対心理士として役に立つ」
「大学に行ってほしい」

父親は、高卒で東京に出たが、学歴社会を目の当たりにして、地元に帰ってきたといいます。
そして母親と結婚し、兄と私を生んでからは、口酸っぱく
「勉強して、大学に行って、いいところで働いてほしい」
と述べていました。

私は、何も知らなかったから、父親の言うとおりにしようと思ったんです。
本当は彼らから離れたかったけれど、そうした方が、父親は喜ぶんだと思って、やっぱり大学に行こうと思いました。
でも、それは「父親のため」であって、「私のため」じゃなかった。
うつ病で、辛くて苦しくて、死んでしまうかもしれない状況でも、私は「私」のことを見てあげられなかったんです。


10月末から11月の中旬ぐらい、まとまって学校を休みました。
そして11月下旬に、高校に久しぶりに登校しました。
英語の授業だったと思います、四時間目に途中から教室に入りました。
怖かった。
みんなに、どんな風に思われてるんだろうって、震えていました。

授業が終わった後、みんなが来て、話してくれました。
「元気だった?」「大丈夫?」「来られて良かったね」
その時、すごくほっとしたのを覚えています。
どうにかこうにかどん底を経験して、そこから少しずつ這い上がったのだと思います。

進路希望調査に、本当に吟味して、今の大学を書きました。
受験勉強を本格的に始めたのは12月。
2次試験までの対策はもう間に合わないと思い、2次試験が小論と面接だった、現在の大学を選びました。
センター試験のみで勝負したのです。

勉強をセンター試験に絞った分、ほんとにどうにかこうにか受験でき、今の大学に合格しました。
合格が決まったとき、喜びよりも、「安堵」でした。
もう、この苦しみから解放される。
そう思い、ようやく、安心して眠りにつけたと思います。


今考えると、高校の時、そんなに頑張らなくてもよかったと思ってます。
高校を辞めて高卒認定試験を受けても良かったし、高校卒業して、浪人したってよかった。
そのまま働いてもよかった。
私は、何にも知らなかったし、父の言葉も間違ってはないけれど、鵜呑みにしすぎてしていました。
人生の選択肢について、あまり私は知らなかったんです。

でも、この経験は、無駄ではなかった。
今ではそう思っています。
お疲れ様でした、あのときの私。




毎日のコーヒー代に。