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エレキギターで奏でるアルヴォ・ペルト、そしてグルジエフ

ペルトの宗教曲をギターで聴く


 先日ふと、しばらく耳にしていなかったアルヴォ・ペルトが聴きたくなった。ペルトが書いた宗教的な楽曲群を中心に、声楽曲でも器楽曲でも、気分によって楽曲やアレンジを選びながら一時期よく聴いていた。スタジオ録音(ハルモニア・ムンディ盤など)がメインだったが、YouTubeでよく知らない合唱団が歌うのを聴いては、ヴォーカルアンサンブルの妙はもちろんのこと教会やホールのリヴァーヴにもうっとりしていた。
 だからそれは、ヘヴィローテーションとなってnoteにも投稿したミシェル・ウィリスからの余韻なのは間違いない。

 近年のアルバムを探してみると、ペルト作品ばかりを演奏した2022年4月の新譜のジャケットがすばらしく、すっと引き寄せられた。それかギュンター・ヘルビッヒ(Gunter Herbig、指揮者と同名だがつづりは異なる)というギタリストの作品「Whenever I Go」だった。ジャケットには、石くれが目立つ乾いた土地に低木がへばりつく、荒凉とした風景の写真が使われている。ペルトの音楽にひっぱられているせいか、原始キリスト教徒が歩いた巡礼の道を思わせるカットだ。後述するロバート・バーンズの詩から採ったタイトルとの呼応も感じ取れる。


 一聴して、初めて知るこのギタリストのソロ演奏に耳を奪われ、そのまま何度かくり返して聴いた。
 鷲掴みにされるというような激しい衝動ではなく、もっと静かに体に染み込んでくる音色と演奏。この誠実、切実なスタイルはペルトの音楽にぴったりだと思わされた。

 ヘルビッヒはアルバムを通して、エレキギターの音色をエフェクター で変えることはせず、基本はギターアンプで純粋に増幅。アンビエントノイズが聞こえないので、オンマイクで録音していると思われる。曲によって薄くアンプのリヴァーブをかけていそうだが、EQはおそらくコンソール通過時の処理だろう。
 だから演奏家としては、アコースティック楽器と同等の捉え方でエレキギターを鳴らしているわけだ(アルバムにFenderのアンプ名をクレジットしているのがその証左)。クリーントーンを貫いているが、音は細すぎない。彼のメイン楽器であるグレッチのホワイトファルコンの胴鳴りをうまく引き出し、中低域の太さも確保している。右手の奏法は、指弾きで爪、指、ブラッシングなど様々に駆使しているのが聴き取れる。
 YouTubeにアップされたインタビューでは「ピアノ曲をギターにアレンジするとクラシックギターではサステインが足りないと感じた」と語っていた。そのうえで、エレキギターをクラシックギター的に弾くことでしか得られないサウンドになっている。ソロギターというと空間系や揺らぎ系などのエフェクターの使用を思い起こすが、本作はとても禁欲的なのだ

 ペルトの楽曲群のなかでも、ギターの独奏に好適なミニマルな構成の曲やミサ曲を選んでいるようだ。 独立した曲の集合体なのだが、ヘルビッヒを通した組曲のようにも聴こえてくる。

 1曲目『My Heart's in the Highlands』はデイヴィッド・ジェイムズ(元ヒリヤード・アンサンブルのカウンター・テナー)のために書かれ、ロバート・バーンズの詩にメロディをつけた歌曲。1コーラスごとにベースラインの表情を変化させつつ、メロディを受け持つ高音弦の金属的な響きや共振と対置して「歌ものの情感」を表現している。ソロギターにアレンジしていても退屈さは感じさせない。
 特徴は、原曲のカウンター・テナーとオルガンのねっとりとした絡みとは異なる、自然減衰するサステインが作り出す「間」。ふと消え去ってしまうのではないかと思わせる、はかない響きが幻想的だ。
 その十分に聴かせる「間」は、本作に通底する特徴だ。
 たとえば『Magnificat』は、原曲が合唱によるマニフィカト(聖歌)なので、男声と女声が織りなす声の厚みと真摯な祈りのムードを持っている。それをあえてソロ・ギターにアレンジし、単線的なメロディをたっぷりした余白で縁取り。緊張感のある間を挟んで緊張・弛緩のダイナミズムが生まれ、聴き手は祈りの場面に引き込まれる。2:10過ぎから、たっぷりとしたエアー感の中でハリとダイナミズムを増して現れる高域弦の音色にハッとする。
 この「間」や振り幅の広いダイナミズム、サステインなど、奏者が右手でニュアンスを自在につけられることはエレキギターの楽器性であるし、それが「歌心」の発露だろう。ヘルビッヒの欲しかった音だ。

 ゆったりとしたミニマル曲『Pari Intervallo』にも驚かされた。メロディの変化に乏しいこの曲を、それまでのクリーントーンとは異なるアプローチで聴かせる。
 軽いリヴァーヴに加えて、グレッチをプリペアド・ギターにして金属的な音色と歪みをつくっている(対比させるようにハーモニクスは澄んでいる)。音の余韻が中央に定位するギターから左右のスピーカーに波紋のように広がり消える様は、祈祷の鐘やシンギング・ボウルの音を思わせる。月並みなたとえだが、瞑想のための曲のように心が静かになる。
 この曲はペルト自身、楽器を変えて4パターンのアレンジを発表しているので、ミニマルさゆえ調理のやりがいを覚えていたのだろう。
 また、ヘルビッヒの思入れが強いのか、『Fur Alina』はアレンジ違いで2曲目と9曲目に収録している。前者はストレートな弾き方だが、後者はプリペアド・ギターによる金属的なノイズを加えてアレンジされている。
 グラモフォンやECMなどで様々な奏者が残したピアノバージョンもよいが、ヘルビッヒの演奏も負けてはいないだろう。楽器による余韻の残り方を比べてみるのもおもしろい。

 本作は録音の良さも特筆される。さらに、マスタリングのレベル設定が低いので、アンプのボリュウムを十分に上げられるのが素晴らしい。CDのライナーも充実している。私はハイレゾに食指が動かない口だが、その音質も間違いはないだろう。

アルメニアの神秘主義から

 同時に、ヘルビッヒのディスコグラフィから聴いているのが「Ex oriente」。19世紀生まれのアルメニアの神秘主義者、思想家、作曲家(作曲パートナーなしでは書けない人だったが)のゲオルギイ・グルジエフの楽曲をギターソロで演奏した作品集だ。これは2019年にリリースされているので、とっくにお聴きの方もいらっしゃるだろう。
 グルジエフの名は、キース・ジャレットを通してジャズ・リスナーに、ロバート・フリップを通してロック・リスナーに知られているかもしれない。

 グレッチを携えたソロギターという点では「Whenever I Go」と同様なものの、楽曲へのアプローチのしかたは若干異なる。時系列としては「Ex oriente」を踏まえての「Whenever I Go」なので、ここでの実践が最新作でも生きた、とも言える。

 ペルトの作品もそうだが、本来であれば複数の楽器で合奏されることを意図した作品をギター一本に移し替えるというのは、相当な楽曲理解が必要になるだろう。原曲のすべての音を指板上に再現できるわけではないので、どこかを残し、どこかを削ることになる。
 ソロギターの譜面には落とし込めない、あるいは楽音にはならない削り取ったエッセンスをいかに表現するか。じつはそちらのほうが重要だったりすのかもしれない。
 その結果として「Whenever I Go」ではクリーントーンにこだわっていたが、「Ex oriente」のギターは湿り気を含んで、歪んでいる。グルジエフの音楽をエレキギターで表現するには、この音色ではならなかった理由があるはずだ。

 実は、先述のインタビューは「Ex oriente」リリース時のものだ(考え方は通底しているので先に引用した)。本作ではグジエフのピアノ曲を中心に演奏しており、ピアノのサステインをエレキギターに置き換えて表現している。
 私が本作を聴いてまず連想したのが、実はディック・デイルの音だった。さらに、その末裔たるビル・フリゼールとマーク・リーボウだった(どちらもジョン・ゾーンの薫陶を受けている)。しかし、それはなぜだったのか。単に音色が似ているというわけではない(上記の3人は徹底的にエフェクター でサウンドを作り込んでいる)。

 1曲目『Music for the Piano, Vol2』のイントロ。5弦と4弦を使ったわずか数音だがグッとグルジエフとヘルビッヒの音楽の世界に引き込まれる。ラウンド弦の歪みっぽいニュアンスを使って、印象に残る音色を生み出した。
 この曲は、まさにアルメニアの地層がそのまま音楽として露出してきたかのようだ。ユダヤ(キリスト教)とイスラムの音楽が混ざったような印象で、やはり冒頭に持ってきたのは、そうしたグルジエフの音楽もつ奥行きを提示したかったのだろう。演奏には、一音一音を確かめるかのような緊張感がみなぎっている。

 ほかの曲もある種の不穏さと緊張感に満ちている。その気配がリヴァービーで湿っぽい歪みの音色と交わったとき、私にデイルやリーボウらの演奏を想起させたのだ。もちろんヘルビッヒは彼らのようにフリーキーではなく、その禁欲さは「Whenever I Go」とも同質だ。しかし、グルジエフの引力によっては譜面からはみ出そうになる瞬間もある(グルジエフは譜面で作曲をしなかった)。
 5曲目の『Sayyid Chant & Dance No.42』の前半や終盤近くでは、単音かつ1音をくり返すベースラインの上を高音弦のメロディが行き交う(オーバーダブかもしれない)。そのメロディラインで感情が振り切れそうになりながらも、ヒルビッヒはギリギリで踏みとどまる。クラシック演奏家としての節度を守るかのようだ。

 唯一対照的なのは、3曲目の『The Bokharian Dervish』。ピアノで演奏される原曲は流麗で美しい小品。「ブハラのデルビッシュ」というタイトルは(現ウズベキスタンの)ブハラの僧侶という意味だろうが、デルヴィッシュという言葉とは裏腹にスーフィーっぽさもイスラムっぽさも感じさせない。シンコペートさせたベースラインと、コードを崩して奏でられるメロディラインのからみが反復し、宗教的な詠唱のようでもある。

 特にこの曲は、構成上ギターにマッチしているとも言える。リヴァーヴを効かせたクリーントーンが楽曲の明るい開放感をより際立たせているし、揺らぎのある音がとてもドリーミーで心地よい。アルバム中、唯一穏やかな楽曲で、いつまでも聴いていたくなる。
 マイナー調の『Meditation』は文字通り瞑想に用いられそうなミニマルミュージックで、この曲もくり返し聴いていたくなる演奏だ。エレキギターとの相性がよい。

 ここで取り上げられている楽曲は、便宜上クラシックに分類されてるとはいえ、そもそも民族音楽的な音階(ペンタトニック、ヨナ抜き的)が用いられてもいる。ギターとの相性は申し分ない。上記のギタリスト3人のファンはもちろん、リーボウがメンバーであるゾーンのBar Kokhbaとも響きあうサウンドだ。

 録音は「Whenever I Go」と同じニュージーランドのウェリントン郊外のスタジオが使われているようだが、調べても詳細はわからなかった。
 だが、こちらの録音もハイファイに感じられる。というのも現段階ではCDの到着待ちなので、私自信オーディオ装置での聴き込みはこれからなのだ(本作もe-onkyoなどでハイレゾが購入できる)。
追記:思ったより早くAmazonからCDが届いた。

エトランゼの音楽

 アルヴォ・ペルトはエストニアで生まれ育ち、のちにオーストリアに移住した。ギオルギィ・グルジエフはアルメニアで生まれ育ち、戦争を背景にチベットからアメリカまで様々な土地で暮らしてきた。2人とも言わばエトランゼ(異国人)として、その背景、思想、宗教的体験を音楽に注ぎ込んだ。そして、エトランゼ的な感覚によるグローバルな音楽をつくり上げた。
 今回の主役であるギュンター・ヘルビッヒもエトランゼ的な感性を持つ音楽家だ。ブラジルで生まれてポルトガルやドイツで育ち、長くニュージーランドで暮らしている。
 そのエトランゼ的な感覚が、音楽表現する上でもペルトやグルジエフと通底しているのではいか。ヘルビッヒの琴線に触れる何かが音に姿を変えて、2人の楽曲に埋め込まれていたに違いない。
 そして、ある文化に対して様々な視点を導入し、考えを深める作業は音楽においても大切だ。ベッカ・スティーヴンスのように実際に外部を導入して一枚の作品を作る手法もある。
 ヘルビッヒの場合は先述したように、ソロギターというフォーマットに対象を落とし込んいく中で外部性を取り込むことができたはずだ。そのアウトプットとして自分のアレンジを、グレッチで弾くという表現を選び取った。これはクラシック畑だけの視点ではたどり着かなかったのではないだろうか。また、演奏からは安易な電気化とも一線を画す厳しさを感じる。

 ギュンター・ヘルビッヒは決して革新的なギタリストではない。だが、クラシック音楽をいかに演奏して、いかに表現するかにおいて、真摯に楽曲と向き合える稀有な演奏家であることは間違いないだろう。            (了)

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