見出し画像

【デビュー】司馬遼太郎がデビュー前に苦しんだ束縛とその解放

本当の「自由」について。

最近よく自由について考えます。
私は自由に生きてるだろうか?
私たちは自由を享受してるだろうか?

また、こうも言えます。
色メガネなしに見ているだろうか?
フィルター無しに見ているだろうか?

そんな話を喚起する逸話があります。
それは、司馬遼󠄁太郎の実体験です。
そうです、あの歴史小説の作家の。

司馬遼󠄁太郎は、戦後、
作家デビューする前は
産経新聞の文化部の記者でした。

「私は二十代のおわりから三十代の前半まで、絵を見て感想を書くことが、勤めていた新聞社での仕事だった。
絵を見るというより、正確には、本を買いこんできて絵画理論を頭につめこむことを自分に強いた。
とくにセザンヌの理論やその後の造形理論を読み、実際の絵画の中でたしかめ、制作した人に問いただしたりした。
この四年ほどのあいだ、一度も絵を見て楽しんだこともなければ、感動したこともない。」

いくら司馬さんでも、
この時期の記事は読みたくないですね。
でも、司馬さんのためにも、
弁明しなくてはならないことがあります。
戦後は、西洋絵画がどーっと流入して
きました。とりわけ、印象派、野獣派、
キュービズム、立体派、抽象派、マルクス
主義派などなど。
たくさんの系譜や流派で溢れかえり、
何か一つはしっかり掴んでいないと
溺れそうな勢いが美術や思想方面には
ありました。

司馬さんはそこでセザンヌの理論を
頼りにしていた。
司馬さんはセザンヌの色メガネを
つけていたのでしょう。
決して自由に絵画を見ていた
わけではなかった。

そんな美術記者をしていた
司馬遼󠄁太郎さんも、四年を経て、
自由なマナコを取り戻します。

「右のような私の時期も、やがておわった。
もはや仕事で絵を見る必要がなくなったときから、大げさにいうと自分をとりもどした。
以下は、偶然のことである。自分自身を道具でしめあげているような時期が終るのと、小説を書きはじめるのと同じ日だといいたいほどにかさなっていた。
もはや私自身を拘束するのは自身以外になくて、文壇などは考えなかった。まして文学上の様式や流派、系譜、徒党性には、知的には関心をもちつつも、そこから自由だった。」

あの、時代の異端児や革命児を
踊るかのように描いた司馬遼󠄁太郎が
実はデビュー前は、
こんなに文学上の系譜や流派に
拘束されていたのかと、
私にはそっちの方がむしろ
呆然としてしまった。

曇りなきマナコで
自由にモノを見る目を持つため
司馬遼󠄁太郎はどれだけ
模索、試行錯誤をしていたのか?

改めてその難しさを
思いしるエピソードですね。

「戦後」もおわり、
文学方面では、もう、
流派や系譜で作品を
カテゴリー化することも
なくなりました。
自由なマナコで作品を
相まみえているでしょうか?

司馬遼󠄁太郎の文章は全て、
美術にまつわるエッセイ集
『微光のなかの宇宙』にある
「裸眼で」からの引用です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?