メディアリテラシー研究の最前線と課題
この記事は2023年6月24日、奈良県立大学で開催された日本メディア学会春季研究大会で報告した内容です。
報告の概要
今回の発表のテーマは「現在の欧米のメディアリテラシー研究の最前線で議論されている点を整理し、日本におけるメディアリテラシー研究の課題を整理すること」です。そのために、日本におけるメディアリテラシー理論の状況を確認し、欧米におけるメディアリテラシー理論動向の一部を紹介します。そして、私の発表要旨を提出した後に発表された、全米メディアリテラシー教育学会による「メディアリテラシー教育の中核原理」改訂版を紹介したいと思います。
メディアリテラシーの概念
まず、日本におけるメディアリテラシーの概念を確認します。この図は2021年に出版された『メディアリテラシー:吟味思考を育む』に掲載されている広義のメディアリテラシーの概念図です。この本は大変よく売れたと聞いております。その結果としてこの概念図もよく知られるようになったのではないかと思います。最近話題になることが多い偽情報・誤情報や陰謀論などの問題はニュースリテラシーや情報リテラシーに関わる問題として理解することができます。
そして中心にあるのが固有の意味のメディアリテラシーの概念です。しかし、最近に至るまで、中心となるメディアリテラシーそのものについての議論は十分されているとは言えません。また、そもそもこの中核となるメディアリテラシー理論についての共有理解があるかどうかも定かではありません。
先行研究として、私の書いた「メディア・リテラシー教育におけるコア・コンセプトの理論と展開 」や「メディアリテラシーと「送り手の意図」論をめぐる一考察 」、そして森本洋介先生が書いた「ソーシャルメディア時代のメディア・リテラシー能力概念とその枠組み」などがありますが、しかし、これらは最新の欧米の理論には触れていません。まず確認しなければならないのは、そもそもメディアリテラシーの基本概念とは何かということです。
メディアリテラシーとは何か
この画像を見てください。これは私が授業で使用するものです。この画像を学生に見せて、次のように尋ねます。「この絵の作者の意図は何ですか。」すると学生たちはこれはパンダの絵だとか、人間が泣いている絵だと答えます。パンダと答えた学生は喜びが表現されていると答え、人間だと答えた学生は悲しみが表現されているといいます。
この絵は、実は生成系AIが作成したものです。もちろんAIですから作品にはいかなる意図もありません。ここで学生たちにメディアリテラシーのもっとも基本的な概念を教えます。つまり、メッセージの意味を作るのは受け手自身だということです。このアクティビティによって学生たちはメディアリテラシーの基本概念をはっきりと理解することができるようになります。
この図はスチュアート・ホールが書いた有名なエッセイ「エンコード・デコード」(1973)の中で使われているものです。エンコード側には意味の構造1があり、デコード側には意味の構造2があります。この二つの意味の構造は非対称です。受け手は送り手の意図通りには受け取りません。多様な受け手が多様な文脈で多様にメッセージを読み解きます。ここで重要なのは受け手の社会的文脈です。その文脈によって、受け取り方が異なるのです。ホールはメッセージの読み解きを一つの社会実践だと捉えました。
この考え方はカルチュラル・スタディーズの原理であるとともに、メディアリテラシーの原理でもあります。(学生がメディアリテラシーをテーマに作ったデジタル・ストーリーテリング作品をご覧ください。)
コミュニケーションの伝達モデル
こちらはシャノンとウェーバーによるコミュニケーションの伝達モデルを描いた図です。送り手がメッセージを送り、受け手が受信します。しかし、その経路にはさまざまなノイズが生じます。さきほどのホールの図と似ていますが、中身は全く違います。こちらはいかにして送り手の意図を正確に受け取るかということが意識されます。ご存知のように、これは情報科学の理論です。
日本ではこの理論を土台としたメディアリテラシー論が普及しています。例えば高校の情報科の教科書にはメディアリテラシーを発信者の意図を理解した上で受け手として情報を正しく、もしくは批判的に読み解く能力とみなす定義がよく使われています。
しかし、この考え方はメディアリテラシーの理論としては極めて特殊なもので、欧米のメディアリテラシーの理論には、少なくとも私が知る限り、このような考え方はありません。このような考え方では、意図されない無意識の領域にあるステレオタイプやバイアスの問題が軽視されてしまいます。
「誤解」をめぐる問題
さて、このような見方をするとどんな問題があるのでしょうか。例えば、「誤解」という言葉の使われ方に見ることができます。上の図の二つの記事はいずれも最近のNHKの報道の仕方が批判された時のNHKの謝罪を報じたものです。どちらもNHKは「誤解を与えた」と言って謝罪しています。しかし、誤解という言葉は間違った解釈という意味であり、この謝罪には暗に視聴者が間違ってNHKの意図を解釈したという意味が含まれています。
カルチュラル・スタディーズを土台としたメディアリテラシーの基本的な考え方から言えば、こうした謝罪の仕方には大きな問題があります。情報の送り手は、多様な視聴者が多様な文脈で多様に読み解くことを十分に理解しなければならないのに、その責任を視聴者に転嫁しているように思われるからです。
それだけではありません。今日の偽情報・誤情報時代では、意図がないものに意図があると思い込むことは、陰謀論的思考につながる可能性があります。
メディアリテラシー・公正・正義
つい最近公刊された『メディアリテラシー、公正、正義』という本を紹介します。この本は新進気鋭のアメリカのメディアリテラシー研究者のアブレウが編集しました。この本には10カ国以上の世界中のメディアリテラシー研究者による30本の論文が収められています。
各章のタイトルをお見せします。大変多いので、すべてを紹介することはできませんが、赤字にした部分をご覧ください。「社会正義」という単語が多いことがわかります。また、公正や環境、シティズンシップや市民参加、そして批判的メディアリテラシーという用語もあります。ここに並んでいる論文のテーマは日本でも議論すべきものだと考えられます。
メディアリテラシー研究の最前線
この本の序文には次のように書かれています。現在、メディアリテラシー教育への急速な関心の高まりが見られること、近年の研究課題の中心は公正と社会正義であること、疎外されたアイデンティティや抑圧された集団に焦点を当てた批判的教育運動の活性化が見られること、そしてパンデミック、気候変動、陰謀論など、過去にほとんど触れることがなかった多様なテーマへの関心の広がりがあることです。さらに序文には次のように書かれています。
さらに、オーストリアのザルツブルグ・アカデミー学派による「共感、平等、持続可能性といった価値を推進し、ポスト個人主義的なメディアリテラシー理論を追求していること、環境正義、気候変動、インフォデミックとに対抗する環境メディアリテラシー理論が注目を集めていることが指摘されています。
本書の序章から特徴的な箇所を引用します。この序章は各章の概略を紹介しています。まず第10章「ネオリベラル時代のメディア教育とシティズンシップ」です。
このようにシティズンシップとの関係を論じています。
第11章「メディアリテラシーと社会正義」の解説では、次のように書かれています。
ここでは批判的メディアリテラシーの重要性が主張されています。
批判的メディアリテラシーとは
批判的メディアリテラシーについては私の著書『メディアリテラシーを学ぶ』の中で解説を書いています。特徴的なものは左側の6つのコアコンセプトです。批判的メディアリテラシー論者として著名なジェフ・シェアは、センターフォーメディアリテラシーの5つのコアコンセプトの作成に関わりましたが、彼はさらに新たなコンセプトを付け加えました。それが社会正義と環境の正義です。
批判的メディアリテラシーについてシェアは「批判的メディアリテラシーは選択肢ではない」(2007)という論文の中で次のように書いています。
このように批判的メディアリテラシー教育は授業の中に閉ざされた教育ではなく、現実の社会の矛盾や葛藤に目を向け、市民社会に開かれた教育を志向するものです。
メディアリテラシー教育の中核原理
もう一つぜひ紹介したいのは全米メディアリテラシー教育学会(NAMLE)がつい先ほど公開した「メディアリテラシー教育の中核原理」の改訂版です(全文訳はこちら)。初版は2007年に作られました。NAMLEはアメリカだけではなく、世界中のメディアリテラシー研究者が集う大きな学会です。この中核原理は何年もかけて研究者や実践家たちが議論をして作り上げたものです。私は2007年のNAMLEに参加し、この原理の初版が発表された場に立ち会っています。
こちらがその原理の改訂版です。全部で10あります。大事だと思った部分を赤字にしてみました。まず第1原理に多元的なリテラシーを統合すると書かれています。これは今話題のニュースリテラシーや情報リテラシーを意識したものだと思われます。
第3原理には「理性、論理、エビデンスを強調」と書かれており、偽情報・誤情報問題を意識したものだと思われます。第4原理には批判的思考について書かれています。第5原理は継続的なスキルアップの必要性、第6原理は「参加型のメディア文化の発展」という言葉を見ることができます。
中核原理2007との違い
2007年版中核原理との違いとしては、まず項目が6つから10へと増え、曖昧な部分が明確になったことが挙げられます。例えば初版では項目5として「メディアリテラシー教育は、メディアが文化の一部であり、社会化の主体として機能することを認識する」となっていましたが、2023年版では「メディア機関は、社会化、商業化、変革の担い手として機能する文化機関であり、商業的存在であることを認識する」となりました。
次に項目9には「社会におけるメディア産業の役割に対する批判的探究」という内容が追加されており、社会的存在としてのメディアが重視されていることがわかります。「公正、インクルージョン、社会正義、サステイナビリティ」といった最近のメディアリテラシー教育研究の潮流も反映されています。
そして項目10では、「質の高い、信頼できる、正確な情報を個人が識別できるようにするためのアプローチ」や「シティズンシップの一側面として、ニュースや時事問題への関心を促し、表現の自由と責任について学習者の理解」といった表現が追加され、ニュースリテラシーやデジタル・シティズンシップ教育との関連性を見ることができます。
第2原理に付属する「実践への示唆」には「人々が個々のスキル、信念、背景を利用して、メディア体験から個人的な意味を構築している」、「その意味が自分の価値観や信念とどのように関連しているか」を考えるという表現があります。また第4原理に付属している「実践への示唆」では、「各メディアには意味を伝えるために使用される独自の言語コード、慣習、構成がある」と書かれています。これらは本報告の冒頭で述べたカルチュラル・スタディーズの原理を指していると言えるでしょう。
2022年に出版された『パワーラインズ:メディアリテラシーで都市部のティーンエイジャーとつながる』は都市部の貧困層の若者を対象とした批判的メディアリテラシーの実践書です。この本が興味深いのは、この実践の主体が学校ではなく公共図書館だということです。メディアリテラシー教育は授業ではなく、社会実践だいうことがよくわかります。大事な部分を下に引用しました。
まとめ
最後に発表をまとめます。最前線のメディアリテラシー研究の中核にあるのは「公正」と「社会正義」であり、それは批判的メディアリテラシーであること、そしてその土台には批判的教育学やカルチュラル・スタディーズがあることを再確認する必要があります。
そして、その上で批判的メディアリテラシー教育運動と実践事例の研究を進めることが求められるでしょう。日本におけるメディアリテラシーとデジタル・シティズンシップ教育理論へ大きな示唆となると思います。
ここで注意しなければならないのは、そもそも「批判的」とはどういう意味かということです。クリティカルという言葉は、もちろん疑問を持ってじっくり考えるという意味もありますが、批判的教育学や批判的メディアリテラシーにおけるクリティカルとはそれだけの意味ではありません。
批判的リテラシーの祖であるフレイレは、クリティカルという言葉を極めて重要なという意味からさらに一歩進めて人間解放という意味を付け加えました。批判的教育学や批判的メディアリテラシーは、公正や社会正義を中心概念としておきつつ、サバルタンやマイノリティ、ジェンダーなどの概念と結びつくことによって広い意味での人間解放を志向する教育運動の基礎理論となっています。
最後に、2022年に出版された『メディアと私:若者のための批判的メディアリテラシー・ガイド』という本についてお話しします。この本はアメリカの数多くのメディアリテラシー研究者や実践家によって書かれました。この本には大変興味深い人が推薦文を寄せています。
まずは批判的教育学で著名なヘンリー・ジルーです。そしてもう一人はイギリスのメディアリテラシー研究者として著名なバッキンガムです。かつてバッキンガムはジルーの批判的教育学を実践なき理論として批判しました。この二人がそろって推薦文を書いていることに私は驚きました。今では彼もまた批判的メディアリテラシーを支持するようになったことを意味しています。批判的メディアリテラシーはもはや実践なき理論ではありません。このエピソードは現在のメディアリラテシー研究と運動の状況を象徴しているように思います。
ジルーは次のように書いています。
そしてバッキンガムは次のように書いています。
偽情報・誤情報問題は固有の意味のメディアリテラシー理論にも大きな影響を与えましたが、その結果として、公正や社会正義の問題を重視するようになりました。日本のメディアリテラシー研究は、このことを重く受け止め、今後の研究活動に反映させるべきだと考えています。では私の発表はこれで終わりにいたします。ご清聴ありがとうございました。
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