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5) 死の淵

重たいバックパックを背負って、23時過ぎに自宅のインターフォンを鳴らすと、生気のない顔をした兄が玄関を開けてくれた。

1ヶ月半ぶりの自宅は、12月の外よりも寒い。

線香の匂いがする。

タイで見た悪夢が続いているみたいだ。

「やっと帰ってきたか…。何してたんや」

「おかんと親父はどこなん」

「上、行ってこい」

2階のリビングに荷物を下ろして階段を上がる。

仏間の引き戸は取り外されて、見たことがない大きな祭壇があった。

冷たく張り詰めた空気。たくさんの供花。暗闇をぼんやりと照らす灯篭。

並んで遺影におさまった2人はずっと笑っている。

リアルすぎる夢はもう終わってくれよ。もう目を醒まそう。

そう思っても私の意識は途切れることなく続く。

慣れ親しんだ家だけど、どこか知らない場所にいるようだ。

冷え切った目の前を、これが現実なんだとにわかには信じられない。


「なんでなん。何これ…」

「2人とも死によった。自殺や」

「一緒に死んだん?」

「おかんが先に死んだ。親父は後追いよってん」

「なんやそれ…」

「親父がな、お前が帰ってきたらどつけて言うとったわ」

「なんで?」

「お前が家におったら、おかんは死なんかったって」

「はじめから教えて…」



1998年11月27日深夜。

雨が降る中、母は家を出た。

父は夜中の仕事に備えるため、19時〜22時頃まで仮眠をとるのが習慣だった。

起きてきて家に妻がいないことに気づいた父は、ひとりで近所を探したが見つからない。

警察に捜索願いを出し、兄と職場の同僚に助けを求めて、手分けして一晩中近所を探し回った。

明け方、父の携帯電話に警察から電話が入る。

区内で中年女性の飛び降り自殺があった。

奥さんかもしれないので確認しに来いとのこと。

父と兄は警察の遺体安置所へ向かった。

2人はどんな気持ちで、もう動かない母に会ったのだろうか。

私は何をしていたのだろう。

母はなぜ自分を殺してしまうほどに追い詰められたのか。

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妻の死後、父はずっと酒を飲んでいた。

糖尿病のために普段は酒を控えていたが、妻の自殺という現実を前にしらふでいることが出来なかったのだろう。

「このアホ自殺なんかしやがって!」

と言って泣きながら妻の棺を蹴っていたそうだ。

悔しくて、悔しくて、しょうがない…。

そんな父の気持ちが痛いほどに伝わってくる。

兄は父が社長を務める家業の運送会社に入社したばかりで、母の葬儀の後、2人は一緒に酒を飲みながらこれから頑張ろうなと励ましあった。


「アホの順平は何やっとんねん。あいつ帰ってきたらお前どついとけ。あいつがおったらお母さんは死なんかった…」

「お母さんはいっつも順平のけつ付いて回っとったやろ…」

12月7日。

そんな会話の後、19時頃に兄は夜中の仕事に備えて仮眠を取るために寝室に入った。

父は明日から仕事復帰し、取引先に妻の葬儀の挨拶回り行くと兄に伝えていた。

22時過ぎ、兄は眠りから覚めてトイレに行こうと寝室を出た。

トイレ横の屋上へ向かう階段の暗がりに、何かがあるのが視界に入る。

寝ぼけた目を凝らして見ると横たわる男。

階段の手すりにガウンの紐をくくりつけ、父が首を吊っていた。




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