田舎家族-1

2) 両親がくれたもの

あけ放たれた縁側から差しこむ光。

畳の部屋。

土壁にもたれて、ちょこんと三角座りをする制服姿の少年。

長袖のブレザーはブカブカで、半ズボンからヒョロリと細い足が伸びている。

野球帽を斜めにかぶり、前髪は額の真ん中あたりでピシリと横にそろえてある。

本を手にして恥ずかしそうな、はにかみ笑顔。

祖母がつくった家族アルバムで見た、たて型名刺サイズの古いモノクロ写真におさまった10歳頃の父。

おそらくは1950年代後半。

親が子供の写真を撮るのは珍しいことだったのかも知れない。

1947年に大阪で生まれた父は3人兄弟の末っ子で、7歳上の兄と3歳上の姉がいた。

小さな頃から物を作るのが好きな少年だったそうだ。

母は1949年に京都の大江山で生まれた。5人兄弟の末っ子で、兄3人と姉1人。

山河に囲まれた環境で育ったせいか、大らかで誰とでも打ち解ける子供だったそうだ。

河岸の大きな岩に座って、おかっぱ頭で満面の笑みを浮かべた母のモノクロ写真を見たことがある。

私とおなじ笑顔。

幼少期の親の写真を見ると不思議な気持ちになる。

その面影に自分や兄、娘たちに似たものを探している。なぜだろうか?似ていると繋がりを感じて嬉しい。

私が小学生のころ、両親の馴れ初めを聞いたことがある。

「ママが駅の売店で店員さんをしていた時にね、パパがお仕事で新聞を持ってきたの。
最初はなんにも思ってなかったけど、パパが用もないのにお店の前をうろうろしててね、パパの方からママのこと好きになったんやで」

と母はこっそり教えてくれた。

この時の嬉しそうな母の笑顔と、私の胸に生まれた温かな気持ちは、30年たっても思い出す私だけの宝物だ。

母には父が自分をむかえにきた王子様のように見えたんだと思う。

画像3

両親は1973年に結婚した。父は26歳で母は24歳。この時、母のお腹には兄がいたそうだ。

結婚してしばらくは千里山のアパートに住んだあと、吹田に新しくできたマンモス団地に引っ越した。

近くには小高い山を中心とした大きな公園があり、兄といっしょに走りまわって遊んだことを覚えている。

父は結婚をきっかけに画家として生きることを諦めて、祖父の経営する運送会社で昼夜をとわずに働いた。

深夜は運転手として現場にでて、昼間はお客さん周りの営業をして夕方に帰宅する。私が幼い頃の父はいつも疲れていて、近寄りがたい雰囲気だった。

睡眠不足で深夜からの労働がキツかったんだと思う。

私が小学校に入学する年。家族4人で引っ越した。父方の祖父母が大阪市内に建てた鉄筋3階だての家に同居することになったのだ。

卓球、お料理、生花の習い事。たくさんの趣味に、たくさんのお友達。

天真爛漫なお姫様のような母は、立派な家に住むようになって、いつもパタパタと元気に飛び回っていた。

そんな母と一緒にいる時にはご機嫌な父。

両親はよく思春期の私の前で惚気て見せた。

「お前のお母さんは世界一の別嬪や」

リビングでコーヒーを飲みながら父が言う。

びっくりして私が返事に困っていると、そばにいた母がニンマリ笑って付け加える。

「色気のかたまりやで~」

父は母の笑顔に生きる喜びをもらっていたんだと思う。

私は両親から安心をもらい、いつかふたりのようになるんだと思っていた。


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