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生きているという事:谷川俊太郎と長二サミット通り

みなさんこんにちは
COEDAS一周年を直前にしつつ
毎日が修行。じゅんです。

コミュニケーションを通じて
個人や組織をパワーアップさせるCOEDASと
世界中の人が遊んでくれるゲームを作る会社
Pixel Unitedの日本GMもしています。

僕が人生の節目を迎えて決断をし
メンタルの専門家になると決めてから
もうすぐ3年が過ぎます。
COEDASも1周年を迎える事になります。
今日は
「日々の忙しさ」と対照的に
日々存在感を増してくる「ただ生きる」という事
について
今日は書きたいと思っています。
久しぶりのnoteなのに伝わりにくい話になるでしょう。

コーチという仕事を続けるにあたり
以前書いたように「哲学」つまり
「何故生きているのか」
「生きるとはどういう事か」
というテーマは避けて通れません。

というわけであなたに質問です。
あなたにとって、
生きる上で

しなくてはならない事はなんでしょうか?

人生とは、
何かをする為にあるのでしょうか?
それとも、そんなものはないのでしょうか?

あなたは「寿命」
もしくは不慮の病気や事故で死ぬその日までの

タイムリミット付のミッション

があるのでしょうか?
その為に毎日、何かしなくてはいけない事があるのでしょうか?

以前の僕は、
どちらかと言えばそう考えているタイプでした。


今日、非常にいろんな偶然の結果

長二サミット通り

という初めて通る商店街を、友人と歩く事になりました。
池袋の近くです。

長崎神社の木々がとても立派で
隠れたパワースポットだなあと実感した後
てくてくと歩いたその商店街は
昭和が今でも続いているような
懐かしい香りと景色のする場所でした。

街てく より

初めて来たのに、懐かしい気持ちに。
ただゆっくりと古き良き商店街を眺めながら
歩いていると「コーヒー豆」の文字が。

コーヒー好きとしては気になりましたが
なんせ、非常にレトロな雰囲気。
入るのにも少し勇気がいりました。

中は、
予想通りの家族経営
もうベテランの老夫婦が経営し、
馴染みのご老人が一人
世間話をしていました。

テイクアウトにコーヒーを頼むと、
非常にゆっくりと
少し手が震えながらも
慣れた手つきで
コーヒーのドリップを準備します。

老人との話し合いは
お互いが少し聴き取れなかったり
言いたい言葉が出なかったりして
けしてスムーズではありませんでしたが

何を話すかではなく

ここで話をする時間に価値がある

この方には。

「この間あそこに生八つ橋を売っていたよ」
「なんじゃそれ?」
「あれだよ、名古屋の」
「ああ、固いの?」
「それじゃなくて、生は柔らかいのよ」
「八橋は京都でしょ?」

少し前の僕であれば
これは「要領の悪い会話」という視点
今日は何故か
「この3人の老人の、日々の営み」であると思えました。

何かの為にしているのではなく、
ただ、そこにあるというだけの、何も特別でない行為。

もう何十年も続いているであろうこのコーヒー屋さんは
もう年十年も変わっていないであろう、
壁のチラシやメニュー。
変わってなかったら少し心配だけど
やっぱり結構前からありそうなコーヒー豆達
一杯入れるのに10分以上はかかっている手際

値段も昭和に置き去り

少し前の僕なら
「経営として」とか
「コーヒー豆酸化しているなんて専門家として」
などと考えていましたが
何故か今日は
このお店や、人々の長い歴史を感じる
尊い瞬間に思えました。

「あちゃー」
セリフの割にのんびりした奥さんの声と共に
少し大きな音が店内に響きました。
ドリップの際にお湯が正しく注げず
せっかくの粉が溢れてこぼれてしまったようです。

「すんません、、、作り直します」
とゆっくりと話す旦那さん。
喋りは奥さんの方がしっかりしているのに
手際は旦那さんの方がテキパキ。
新しくコーヒー豆を入れて、
年季の入ったミルが大きな音を立て

また10分以上の時間がゆっくりと過ぎていきます

僕達はただ生きている

と思う瞬間が、よくあります。
昔からずっと
「人生で何かを為さねばならぬ」
というのもあるけど。
同時に
「僕らはただ生きている」
が本質なんだろうな。

このコーヒーは、10分以上かけてゆっくりと
下手したら何か月も酸化した豆を
荒さが不均等なミルでひかれ
350円という安価で提供される。

かなり心配な豆とケース

これビジネスと見ればかなり微妙。
ご飯代が稼げているかも不安。
でもこの店はずっと続いていて
立ち続ける二人と
一杯のコーヒーで話し続ける日課の老人がいて
目の前を通る人々がいて
店先の鉢植えを丁寧に変える隣の居酒屋があって
1歳の子供を育てながら
思い切って始めたマフィン屋さんもあって

人がただ生きている

という事は
そこに何か答えがないまま、
十分、それ自体が価値のある営みであると
そんな事を思いながら
近年ここまでマズいコーヒーを飲んだことがあっただろうかと
そんな事を想いながら。

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ

生きる 谷川俊太郎 https://www.nanarokusha.com/ikiru_zenbun.htm

https://www.youtube.com/watch?v=X9t0wZS-8zk

こうやってまた
僕は不可思議Wonderboyを聴きたくなるので
彼もまた、やっぱりまだ生きているんだろうなあと思います。

自分が何者でもないと思ったり
何かが足りないと思ったり
何かが優れていると思ったり
価値のない人や価値のある瞬間や行為があったりと
毎日忙しいけども

結局僕らは
今日もこの地球に偶然生まれただけの猿
ただ生きている事で充分なんだと
忘れないでいたい

ただ生きているだけで、あなたもきっと十分です。
良い一日を。

サポートされたら、俺はその倍額を寄付する。倍返しだ。