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フランケンな父がオセロの王者になるまで。

晩年、父は右耳が聞こえなかった。

まだ父と母だけで暮らしていたある朝、
「あ、、、」
という声に続いて、
「今、右耳が聞こえなくなった」

と、父がつぶやいた。

そんな世紀の一瞬のような出来事を、「今日は風が強いね」くらいの軽さで言われたことに母は驚いたと言う。

聞こえにくくなったのではなく、
全く聞こえなくなった、らしい。


母は耳鼻科に行くことを勧めたが、元来病院嫌いな父は、結局、行かなかった。
だから、何故聞こえなくなったのかは、今も分からない。
多分、加齢によるものだろう。

「補聴器、お作りいたします」
というポスターを眼鏡屋で見て、無理矢理、父に勧めてみた。
「ではまず、聴力テストをお受けください」と、父はテストを受けたが、聴力は殆どゼロだったようだ。

こういう時、私はしつこくて自分でも嫌になっちゃうんだけど、父は望んでいないのに、「1ミリでも聴力が戻る可能性を信じたい」と、無理矢理、補聴器を作ってもらった。

が、「付けていると余計、聞こえづらい」と、補聴器は殆ど使われることはなかった。

緑内障になった時もそうだった。
いつか目が見えなくなったらどうしよう、、と、私は、とげぬき地蔵尊に何度も通ったりしたのだが、「その時は、その時」と、本人は至って冷静だった。

父は自分に起こる身体の変化、出来事を、かなり冷静に受けとめる人だった。
それは、晩年、認知症になったためと思っていたのだが、もしかしたら、子供の頃からそうだったのかもしれない。

父がまだ小学生の頃、足のつま先から何かが出ているのを感じて、引っこ抜いたら、真っ赤に錆びたクギだった。と、話したことがある。

「いつか踏んだような気がしてたけど、どこにも見当たらないから、どうしたんだろうと思っていたんだよ。自分の身体に入っていたんだな。驚いた」

驚いたのは、こっちだよ!
そんなフランケンシュタインみたいな話、今、思い出しても卒倒しそうだ。

どこまでが本当だったのか、今になっては確かめることも出来ない。大正の最後の年に生まれ、まわりが田んぼと山だけの農家育ちの父は、かなりの野生児だったに違いない。

「朝はいつも腹が減って目が覚めたもんだ」

食が細い娘達が食事を残すと、父はいつも呆れたように、そう話しだした。

「だけど、なかなか朝にならないから、庭に出て行って、柿の実を見つけて、食べようとしたんだよ。兄貴達と奪い合ってな。大体は渋柿だったから、物凄くがっかりしたよ」

柿の実の話あたりで、いつも父は笑顔になった。幼い日が懐かしいのだろう。物がない戦前の田舎町の貧しい農家で、どんな子供だったのだろう。どんな物を見て、どんなことに感動して過ごしたのだろう。

苦虫を噛み潰したような顔しかしない父にも子供の頃があったのかと思うと、いつも不思議な気持ちになった。

亡くなるまで入っていた病院では、看護師さんに不思議なことを言われた。

「お父さん、ハーフとかですか?目が緑色ですよね?」

はあ?コテコテの日本人ですけど。
まあ、緑内障なので、緑色なのかもしれませんね。

「え?」

あ、今、笑うとこです。

確かに、救急で運び込まれてからの父は、すっかり別人になっていた。

口を開けば文句ばかり言っていた父が、病室で会う全ての人に「ありがとう」と言い、従順になり、本当に目が緑色になった。(笑)
それはもう、何かを悟った人間にのみ与えられる称号かのように見えた。

おそらく、父は「その瞬間だけを生きる」と、決めたのだろう。

「明日はどうなるかばかり考えるから不安になるのです。お父様は、今、この瞬間だけを生きているから乗り越えられたのです」

今夜が山と言われた「山」を乗り越えた朝に、担当医に言われた言葉だ。

生まれて初めて、父が羨ましいと思った瞬間だった。それまで、決して愛せなかった父を尊敬した。
父は、亡くなるまでの2ヶ月をかけて、それまで真っ黒だったオセロのコマを見事なまでに真っ白にひっくり返して、旅立った。


今、この瞬間だけを生きること。

私には出来るだろうか。

ひとつの不安に、大枝や小枝をくっ付け、葉っぱも沢山繁らせて、不安の大樹を完成させる。その不安をかたっぱしから、切り落とそうと、躍起になって立ち回る。

枝が切り落とされた後、やっと見えた青空に安堵するも「始めからずっと晴れていたよ」と、友が笑う。

極度の不安症で、不安じゃないと不安になる。不安になるために生きているのか、と思うくらい。

この瞬間だけを享受して、ありがたい、ありがたいと笑って生きていたい。

長い旅が終わる時、あ〜楽しかった!と、笑って空へ帰りたい。

その時、私の目も緑色になるのだろうか。

と、今日も鏡の中の瞳を見つめてみるのだ。



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