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喧嘩が出来ない本当の理由。

私は、喧嘩をしたことがない。
生まれてから一度も。

結構長く生きているんだけど、思いの丈をぶつけるとか、言い争いとかしたことがない。
何か嫌なことをされたり、言われたり、意見が合わなくても、全部、受けとめてしまう。

「この人にも、この人の世界があり、その世界の正義で語っているなら、私の考えこそ間違えているのかもしれない。だったら、それを押し付けるのは失礼だ。
それに今、相手は物凄いエネルギーで対峙してくる。私にはそんなエネルギーはない」

と、思ってしまう。
蛇に睨まれた、、なんだっけ? 蛙?
そう、蛙。
まくしたてられて、おしまい。

自分が、そういう性格だと悟ったのは、小学生の時だった。
とても仲良くしていた友達を怒らせてしまったことがある。一緒に帰るとか帰らないとか、そんな事だった思う。
悶々とした日を過ごし、明日学校へ行ったら、あれを言おう、これも言おうと思っていたのに、いざ、会ったら、何ひとつ言葉が出て来なかった。なぜだろう。
彼女だけずっと私に文句を言い続けていた。
結果、「ばかにしてるの?」と、更に彼女を怒らせてしまった。

ばかにしたんじゃないよ。
あなたのいうこと、よくわかるから。
わたしがわるかったんだなっておもうから。
でもわたしにもわたしのりゆうがあったの。
いや、でもそれをいうのはずうずうしいね、
わかってもらおうなんて、ずうずうしい。

という思いがアタマの中を駆け巡る。
だから何も言えない。

こういう時、心の中に様々な感情が駆け巡るが、優先順位を付けるとしたら、一番は、

相手を傷つけたくない。

だ。 

そして、結局、この感情で締め括る。

私が我慢すれば済むこと。

実際、子供の頃から、一日に100回くらい両親に言われた言葉は、

我慢しなさい。だ。

世の中は私が我慢すると上手く回るらしい。私の願いはそう簡単には叶わないらしい。

そんな感情がどっかりと根付いてしまった。

私が我慢すれば、世界がうまくまとまるなら、いくらでも我慢しましょう。そのくらいなんでもないこと。なんなら、私、謝ります。誰かの怒りがおさまらないなら、私、その怒りの矛先になってもいいですよ。人間、誰かに謝ってもらいたい生き物ですから。
私に全く関係ない話でも、あなたの気持ちがおさまるなら、いくらでもアタマ下げます。

みたいな境地にさえ、なる。

まあ、アタマが悪いんだろう。

今、何を言えば良いのだろう。自分は、今、どう思っているんだろうって、よく分からないことがある。

すみません、その案件、一度預からせていただいてよろしいですか?

って感じになる。
じっくり、噛み砕いてみないと、どう自分の世界に受け入れるべきか、分からなくなるのだ。

だから、アタマの良い人に憧れる。
瞬時に今、何をどう伝えれば良いのか判断し、ブレずに言葉が出てくる人が羨ましい。

そこで喧嘩になろうと、待ってました!とばかりに相手とぶつかり合う。キラキラと輝きを放ちながら。それはもう、理路整然と。

思わず、
お見事‼️と、拍手したくなる。

そんな私が、たどり着いた場所は、

書くということだった。
書いている間は、誰も入って来ない。
瞬時に答える必要もない。

最初は日記のようなもの。
詞のようなものとは全く程遠い。
ほんとは私、こんなことを言いたかった。みたいな自白のようなもの。

書いて書いて書いて私は自分と向き合った。
そして、いつか作詞家になった。

大人になってから、チャネラーみたいな人に指摘されたことがある。

「自分さえ我慢すれば、なんとかなる。みたいな生き方、もう、やめなさい。なんでもないと思っているかもしれませんが、それはあなたの心と身体を深く傷つける」

お会いした途端にそう言われた。
自分では、自覚していなかったし、若かったから、誰かのために自分が我慢したり、張り切るのは、嬉しい事でもあった。

そう、我慢することは、誰かのためと思っていたのだ。
そんなの、ちっとも喜ばない。
誰かの犠牲の上に成り立つ喜びなんて、いつかほころびが出てしまう。
誰もシアワセじゃない。

わかってる、わかってはいるんだ。

わかっているんだけど、そう出来ないのは、ふたつ理由がある。

ひとつは、DNAに染み込んでいるから。
家族も同じ性格なのだ。
家族なのに、感情をぶちまけたことがない。
いつも、言いたいこと、思っていることを薄紙100枚くらいに包んで生きている。
いつも誰かが誰かのために我慢している。
それが生きていくという事だから。

そんな神話が脈々と受け継がれてきてしまった。振り向いてみれば、親戚一同、みんな同じような性格なのだ。少しだけ距離を置いて生きている。たとえ、家族だとしても。

なんか、ミステリー小説に出てきそうな一族じゃないか!

もうひとつの理由は、
我慢することをやめたら、私が私ではなくなる気がするのだ。つまり、詞を書くということもしなくなるんじゃないかと思うのだ。
声に出せなかった言葉が、心の中で、こねてこねてこねられて、詞になるのなら、我慢 も悪いことではないんじゃないか。

そう思うんだよ。

我慢って、辛そうな言葉だけど、それは私にとって、詞を書き続ける原動力ということなのかもしれない。

やっぱ、ちょっと、辛そうだね。笑

※今日は、まいこさんのイラストを使わせていただきました。ありがとうございました。

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