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生きた 書いた 愛した —書くこと70年

 瀬戸内寂聴さん99歳で死去(2021年11月)
女性の大学進学が難しい時代に、徳島から上京し東京女子大に通った。在学中、学者と見合い結婚。大学卒業までは、夫の理解のもと結婚しても純潔を通した。卒業後夫と共に満州へ。そこでの生活を元に書いた「女子大生曲愛玲(チュイアイリン)」や「花芯」が認められたが、批評家に子宮小説と揶揄され、ポルノ小説のレッテルを貼られ苦渋の日々を送った。私小説と誤解されたのも悔しかったという。妻子ある作家と若い男性との間を行き来する自伝的小説「夏の終り」が示したのは、どんな生き方であれ、自ら選択肢し、その結果を自らが引き受ける潔さを持った女性だ。90歳で発表した書き下ろし作品「月の輪草子」まで通底する主題で、社会進出が進む時代の女性読者の羅針盤になった。


1973年の出家

瀬戸内さんは、「夏の終り」の作家小田仁二郎の他にも作家井上光晴とも不倫関係に陥った。苦悩を断ち切るため出家する。売れっ子作家になったもののの、虚無感に襲われ自殺未遂もしたという。天台宗の尼になることで、魂の救済を得て、また文学的にも「どうして誤解されるのか」というテーマを持ち、困難な状況にあった戦前の女性たちの行き方を書いていった。田村俊子、岡本かの子、政治犯であった金子文子らの伝記をつぎつぎに発表し、因習と戦い、屈しなかった先達への尊敬と共感が瀬戸内さんの魂を鼓舞した。

行動する作家

満州からの引き上げの際、乳飲み子を抱えて非常に辛い思いをしつつも帰国。防空壕で祖父をかばい焼き死んだ母親のことはとても辛く堪え難いものだった。どうしてこんな目にあうのか。次第にその解決の糸口は政治に向かった。「戦争は悪だと言い続ける」と湾岸戦争時にはハンガーストライキを起こし、右傾化する傾向に危機感を抱き、脱原発運動にも加わった。「社会情勢に左右されない自由に書ける場」として月刊個人誌「寂聴だより」を30年間発行した。

ひとなっつこい性格と諧謔精神

瀬戸内さんは、コミュニケーション能力が高く、文壇でも多くの人と交流があった。三島由紀夫、川端康成などの文豪を始め本当に多くの人ととの交流がある。「奇縁まんだら」ではその人脈の広さを伺うことができる。作家林真理子氏は雑誌の連載で瀬戸内さんの伝記を書く予定で取材をしようと考えていたところだったという。それはかなわなかったが、人脈も広く社会的な活動された先生のすごさは作家であり、燦然と輝くスターだったと、林さんは語っている。瀬戸内さんは、私が死んだら残るのは源氏物語だけよと諧謔精神をお持ちだったという。それは謙遜で時代の変遷を感じながら著作を読み返すと共に、今の視点でフェミニズムの視点からも読み返すとあらたな共感が生まれてくる。


平野啓一郎氏主催 「文学の森」瀬戸内寂聴さんを語る

平野啓一郎さんのデビューでは、三島由紀夫の再来、素晴らしい新人が出たと、瀬戸内さんはとても感激したそうで、それ以来長い交流がおありでした。
平野さんの語り瀬戸内像、そしてその作品についての考察を、編集ライティングさせていただいたので、ぜひご覧ください。


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