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外見は、マインドを映し出す姿。85歳の母の曲がった腰がまっすぐ伸びて、夢をかなえた話。母との確執、DNAと生き方、知らないうちに引き継いでいるマインドとファッションについても。


決して諦めないDNA


過去にもDNAと外見・ファッションについての考察を書いた記事が多々ありますが、長きに渡るパーソナルスタイリスト人生で、今最終的に追及している真のパーソナルは、その人の「素」にある、ということ。

過去記事を読んで貰ってから本題へ、だと、かなりストレスだと思うので、
お時間あるときにでも じっくりどうぞ。
きっと ファッションを軽く考えてきた人ほど、ハマると思います。
だって、誰しもがかけがえのない存在なのに、服装はそのことを忘れ去られたかのような軽いものになってしまってきたから。うすうすと、そういうことに気がついている人ほど、ファッションは軽く流したいものだと思う。

本質に触れることを避けるように。

そしてできれば長文にお付き合い下さい。
本筋、肝はラストにあります。
母との確執、長年の思い、それでも今は感謝しかない、という域に達していることも、ファッションがあったから。


母から 引き継いでいるもの。


私と姉。右下は母と姉の運動会。ワンピースにパンプス。結い上げたヘアスタイル。


私たち人間の最大の弱点は諦めることにあるのだろう。
どんなことだって 諦めさえしなければ到達できる何かがあるはずでも
人間はその景色を見ずに多くを諦めてしまう。

彼女(母)は諦めなかった。諦めない人生を生きている人だと思う。

この夏で86歳になる母が、実家(広島県福山市)から名古屋での一宮高校同窓会(今年で最後の回になったそう)に出席、その後東京に立ち寄り、帝国ホテルに泊まりたいという夢をまた一つ 叶えた。
30カ国近くを旅してきたような人だけど、東京には私の家があるので、どこか別の場所に泊まるということは今までなかった。
うちの家族と一緒に旅行に行こう、となっても、まさか都心でホテルという選択肢はなく、改めて母が 一度は帝国ホテルに泊まりたい、というまでは、そんなことを考えていたことすら知らないことだった。

そして、まさかの 帯状疱疹からの後遺症で、腰も曲がり、歩くこともままならなくなっていた数ヶ月前からは想像が出来ない遠方への旅である。

帝国ホテルに宿泊 


母の生い立ち



母は愛知県一宮市出身。実家は呉服に携わる商売人の家系に生まれ裕福に育った。一宮の華やかな商店街がすぐ近くで、田舎育ちではなく繁華街で育っている。子供の頃、夏休みも冬休みも母の実家で長期間過ごしていた記憶からしても、その暮らしぶりや中庭に蹲(つくばい)→日本庭園に置いてある背の低い手水鉢(ちょうずばち) があるような、なんつーか立派なお屋敷での滞在は、幼心に少し威圧感があるほどだった。

蹲 イメージ画像です。そもそも 蹲って茶室があって、お茶を嗜む際に手を清めるために造られたものなんだよなぁ



長い長い木造りの廊下の雑巾がけを毎朝お手伝い。おばぁちゃん、おじいちゃんの元でゆったり過ごす、という感じがしない里帰り。笑 何かと落ち着きがない私にとっては少し窮屈な厳格さがあったものだ。親族が勢ぞろいとなると更にリラックスできない私。案の定リラックスできないから、喘息はでるし、母の実家に帰ることは私にとって試練でもあった。


超イケメンだった おじいちゃん。後にも先にも、おじいちゃんほどの美しいお顔は見たことがないかも。いつも優雅に、朝食を食べていたなぁ。紳士だった。
中央祖母 上段の真ん中の姉様以外、おばーちゃんにそっくりな族。



8人の兄妹のうち、母一人だけが「文通」で出会った父の元・故郷から遠く離れた広島県福山市にお嫁入りすることになる。文通テ、、、ここを書くと永遠に終わらなそうなので省くけど、興味深い話よね。

(ただ、文通=文字を書くことのDNA、書をしたためるという「書道」については、後からも出てくるが、引き継いでいることのようにも思う。)

毎年母から必ず届く年賀状。



母がもしその運命に背いていたら、私は産まれなかったし、今の自分のような人間にはなりようがなかった。彼女は名古屋の一族から一人だけ離れ、安泰を捨て ある意味「族」の箱から出た稀有な人だった。あの時代では珍しいケースだと思う。

父もまた、アパレル会社を経営し、工場に沢山の従業員を抱える裕福な家庭で育ち、会社を引き継いだばかりのいわゆるボンボン。
うっすら記憶にあるのは3階建ての大きな家に、おばぁちゃんも一緒に暮らしていたこと。とはいえ福山市府中市という片田舎に、愛知からチャイナ服を来た派手なお嫁さんが来た(笑)という噂は瞬く間に広まって、なかなかのニュースだったようだ。

母の手編みのマフラーをしている私。マフラー、バッグなどはは当たり前に母の手作り物を身につけていた。家族でお出かけの際には、きちんとしているのが基本。家族旅行では、浴衣ではなく、わざわざネグリジェを持参。笑 何かと垢抜けたことがやりたい母だったと思う。



しかし、父が経営する会社は実際は火の車状態での父親からの引継ぎだったという。家庭内の問題もあったようで間もなく倒産。それを機に府中から福山に引っ越したそうだが、それからの我が家の記憶は、上に書いたような裕福な暮らしというイメージはない。自宅には時折お手伝いさんがいたものの、父はサラリーマンに、母は自宅を小さな工場化してミシンを扱う、両親とも忙しく働く家庭になっていた。母は夕飯を作りながらもミシンは動いていたという印象があり、父は仕事が終わって帰ってきてからも自宅での仕事をヘルプしていたように思う。彼女が50歳になったとき、そのミシンにお酒をお供えし、「今までようがんばってくれた」と労っていたシーンを私は今も忘れることはない。

裕福な家庭に育ち、お嫁に行った先の事業が潰れるという予期しない自体の中、持ち前の負けず嫌いと諦めない根性で、大借金の返済、やっと再び手に入れたマイホーム。それには想像を越える苦労があったことだろう。

2階建てのごく普通の一軒家ながら、お庭に面した豪華なシャンデリアにピアノ、といった洒落た部屋があった。このお部屋と、絶対に床の間は必要!と譲らなかった畳のお部屋は、今思えば、母のプライドのようなものだったのではないか。貧乏でも貧乏くさくはいたくないという。

私は無理やり習わされたピアノのレッスンが嫌で嫌で、よくお庭の植木の陰に隠れて逃げていたものだ。床の間に飾られる掛け軸や骨董品にも幼子にはどうでもいいものだった。
後に、実家は増築されて、シャンデリアのお部屋はなくなったのだが床の間には彼女が自身で書いた「書」が飾られている。そうした影響は今も書道を続ける私の奥底にある何かなんだろう。
そう、先ほども出た、書にまつわる話。
ピアノは唯一嫌いだったけど、書とバレエは機嫌よく続けていた。

家持のうたを書く。
私自身、書道は切っても切り離せないもの。もう少し年を重ねたら書道をもういちど極めたいとも思っている。
ご丁寧な礼状を頂いたお返事に、クライアント社長へ書をしたためる。日常的にやっていること。



こんな話を時代を追って書くなら 一冊の本が書けるほどになるわけで、途中はオール割愛するが、40代で孫が出来てから、4人の孫、3人のひ孫がいる、大おばぁちゃんになった。その間、58歳で父が天国へ逝き、約7年間くらいは落ち込んでいたものの、自分の人生を楽しむことを諦めず、好奇心旺盛に世界約30カ国を旅するような元気な老後を送ってきた。

子供のPTA時代に自らが立ち上げた卓球クラブを現在まで続け、80代で卓球の大会に出て好成績を収めるなど、運動にも積極的。
60代でフラメンコをはじめ、発表会で舞台にも立っていたし、たぶんそのころまで車の運転よりバイクが好きで、20代で取ったバイクの大型免許を持っているからか、ミニバイクは嫌だと言い張り、ずっとカブを乗り回していたような人だ。笑 喘息が出た日はカブの後ろに乗って病院へ行く。発作が収まったら、またカブにのって小学校に遅れていく。

しかし なんでこんな変な記憶って鮮明なのか。

まぁ こんな感じで。

しかし、、どう読んでも、好奇心と気概の塊な人だな。笑 汗。

帯状疱疹の恐ろしい後遺症

そんな母が、コロナ時期に帯状疱疹に見舞われた。それがとても厄介な場所で頭部+首に症状が出て肩から首筋の激しい痛み腕が上げられないといった運動麻痺の症状を併発。神経の痛みは完治することがなく毎分ごとに異常な痛みに覆われて一番キツイ鎮痛剤が効かないというほどの事態になった。
あとどれくらいで治るのか?という予測すらドクターも立てられず、一生痛みが続く人もいるという回答。一生?と症状を聞くわたしの方が絶望的な気持ちになった。

痛みは尋常ではなく、蹲って立てない状態が数ヶ月。痛み止めが数分間でも効いているときに少しだけ食べる、トイレに行くが精一杯。立てない、寝込む時間が長い、よってこのまま足腰が弱り衰退していくような状況が手に取るようにわかる状況だった。電話の声が今までの元気な母の声とはまるで違い、5分も歩いたらしゃがみ込むし、腰も曲がってしまった、という。
薬を飲んでも痛みが走るときは、電話越しでも痛みで声が出るほど苦しんでいた。


しかし、母は諦めなかった。


「もう少し歩けるようになったら、東京に行って帝国ホテルに泊まりたい」


普通この状態なら、気が弱くなり諦めモードに入っても仕方がない年齢でもあるだろう。寝込む日が続き、入院になったっておかしくはない状況だったのに、自分で車を運転し、少しでもよさそうな病院を探しては治療に通う。腰が曲がった状態でも、卓球の練習にいく。←どうやって球を打つのか、今も謎。
ある日、この先生ならという若きイケメン治療家のことを嬉しそうに話しながら母はこういった。
「もう少し歩けるようになったら、東京に行って帝国ホテルに泊まりたい。」

母はいつも、テレビなどで腰が曲がった人を見ると
自分は年をとっても絶対「腰を曲げて歩きたくはない」といっていた。
姿勢に関して、自分にも私達にも厳しい人で、背中を丸めていると幼い頃から常に「背中が曲がっとる、もっと姿勢をよくしなさい」が口癖のようだった。喘息持ちで気が弱く、運動が好きでも発作が続けば背中も丸くなる。
そんな私にバレエを習わせたのも、姿勢をしゃんとさせたい、そしてやはり華やかなこと、美しい舞台衣装などが好きという彼女の好みだったんだろう。本人も相当本気でバレエを習っていた人でもあり。

右上が私。踊って「表現する」という行為に、癒しと楽しさを感じていた頃。こうしたDNAも今の職業に大いに関係している。もちろん衣装が大好き。


こうで在りたい、がすべてを越えていく。


そんな人だから、腰が曲がってしまったことは、どれほどショックだったことだろう。自分らしくない、と嘆いたはずだ。
しかし母は あきらめない地道な努力で復活を遂げていた。完全復活ではないものの、電話ごしに聞いていた状態のままでは、とても東京に出てくることは不可能だったことは確か。


画像にあるように、、シャッターを向けたときの背筋を毅然と伸ばす姿は、まさに母だった。
こうでありたい、という思いが病気や現状も超えていくんだなと。

浅草を探索。しっかり背を伸ばしている。



思いを行動で積み上げ、夢をかなえた。


電話口でも何度もいっていた。
「もうええかなと思ったらもうお終いじゃけ、もう一回だけ復活してやりたいことができるようにならんといけん。」
もうええかなとは もう、こうなっても仕方がないかな、という意味で
それは諦めることを意味する言葉。そう思ってはもう、おしまいだと。

日々自宅の回りを地道に歩き、卓球では腰が曲がっても出来るスポーツ、歩くより楽、と言わしめ、未だ取れない神経の痛みに絶望せず、今日よりも明日を少しづつ信じて、彼女は絶対に出席したかった同窓会に出席。自分の脚で名古屋まで行き、400人いた仲間は40人台だったという最後の会で元気な姿を友人達に見せてきた。誰もが歩けなかったなんて嘘やろと言ったそうだ。
東京に遊びに来るといっても、自分の力で歩けるとそうでないとは本人の心持はもちろん、私達親族にとっても、有難いことだった。私と姉、孫達に見せる、もしかしたら最後になるかもしれない姿を「元気」に印象付けようとする母の気概そのものがこの人だと感じたこと。

そして、さきほどバレエの所で「華やかな世界が好き」な母は、85歳の今も変わらないどころか、よりその傾向が増しているようにも感じた。

ホテルでの食事用に、私がプロデュースしたMUTEKIブラウスを持って行くと
嬉しそうに速攻着替えてくれた。MUTEKI&ゴールドネックレスをプレゼント。姉と私が着ているのも同じMUTEKIの色違い。3人御そろいの服。笑


母 姉 私 娘で帝国ホテルに宿泊。
特別に2部屋続きのインペリアルルームを用意していただいた。


まぁ 結婚当初、福山の田舎町で チャイナ服で歩くような人だったわけですからね。今も華やかなスタイルが大好きな様子。

帝国ホテルのショッピングモールでウインドウショッピングを楽しむ母、姉。
昔のジャンフランコフェレの作品が並ぶこちらのお店で、使い勝手がよさそうな羽織りものと


こちらのショーウインドウに飾られていたショールを購入。

何歳になっても「お洒落」に気を使う人は気が若いというが、自分の30年後、こうでいられるかしら? そもそも生きていられるのか問題。
いやほんと、長生きで元気って、それだけで尊敬だわ。


創作意欲と集中力。追求し、丁寧に創り上げる力は驚愕の才能。

50代で父を見送った後は自分がやりたかったことに精を出す。
その一つが、「木彫り」。
木彫りの師匠に、もう教えることはないといわれたというが
展示会でも即売会でもやればいいのに、アーティストとして世に出れる腕前に相当しても、そういう気はまるでないという。
数々の作品を生み出しているが、私が最も好きなシリーズ、ムーミンをモチーフにしたクリエーション。これは壁飾りで 私へのプレゼントとして彫ってくれた作品。ホテルで食事をしながら親族にご紹介中。

全貌
拡大
過去の作品
鉛筆立て、小物入れなど 私が使用しているものたち。孫(私の娘)にねだられ、福山に帰ったら、このペン立てを作成するそう。


創作意欲と集中力に関しても、強く引き継いだDNAのように思う。
ファッションデザイナーになったこと、現職はスタイリストであり、同時に書やイラスト描くことや、上記MUTEKIブラウスをはじめ、服のデザインや創作を現在も続けているのは、こうした母の影響は大きいのだろう。
それを言うなら、ずっとプロカメラマン級の腕で私達を撮り続けてくれた父にも、そんな要素があったよなぁ。ちなみに叔父(父の弟)は現役のプロカメラマンだ。

木彫り作品 雛人形 娘のために彫ってくれたもの 右上うちのお嬢。


自分の持ち味や素の個性に向き合うファッションスクール


私は常に、運営しているMFJ(マインドフルファッション)の学校で、、生徒さんの持ち味や資質について向き合って貰うことを一番に大事にしてきた。今と未来は変えらるけど、過去は決して変えることが出来ない。DNAは尊いものであって、そこに縛られる必要もないけれど、知って向き合ってこそ、またその箱からも出て行けるものかもしれないと。その過程を踏めば、人は服装からマインドフルになれる。それは自己肯定感を上げることに繋がるからだ。結果 日々の装いも。ギフトファッションという根底からの豊かさ、楽しさにたどり着くのだ。

装いには、こうしたことのすべてが関係していると私は本気で思っているし確証もある。
表面的な似合うに疲れ、見栄えや顔移りを良くした所で結局は何も幸せにはならないし、逆に本当の自分から遠のいていってしまう人も多い。そうでなければ 政近のサービスを半年以上も待つ人がこれほどいてくださることはないだろうと思います。

真の自己表現は 癒しでもある。


真の装いのパワーや癒しというのは「自己表現」の中にあって
違装することではない。
また、着飾ったり、濃いメイクをすることのほうが、その人の「素」であることもあって、素とはけっして素顔、ナチュラルな服装、ということでもないのでこのあたりはまた別投稿で説明します。
いずれにせよ、本当の自分の表現ができていれば、他者にとってもギフトであり、自分は癒される。パワーを感じ、素の自分を受け入れ、家族にも感謝でき、自己肯定感もあがるものなんですよ。

久々に孫2人に同時に逢えた母。ご満悦。


画像は、帝国ホテル、宿泊部屋の様子ですが、ディナーでは私がプロデュースしたMUTEKIブラウスを、母 姉 私で 色違いで着用。娘もピンクを用意していったけど、まぁやり過ぎかなということで、笑 着ていませんが、こんな機会もそうそうないので、4人並んで撮っておけばよかったわー

東京見物では、申し合わせたわけじゃなく、蓋を開けたら信号機に!!!驚。帝国ホテルに皆で滞在し、ボトムはディナーのときと同じ、トップスだけを3人が着替えての次の日。あらま 信号機じゃないのって。笑 うけるわ。

信号機か!な装いですが、楽しさが増しました。笑 ごちゃごちゃな浅草にはいい感じ。


母との葛藤 いろいろ

長所も短所も、否が応でも引き継いでいるという事実。


さて、こんな母と東京にて 同じ時間を楽しんでいますが、いろいろと感慨深い。彼女の諦めない精神をはじめ、持ち前の前向き感や我慢強さは長所でありながら、短所とは背中合わせです。

これは誰しもがそういうものだと自戒を込めて書いているわけですが、母の良いところは子供の私にはキツカッタ。母が望む「優秀な聞き分けの良いいい子」には私はなれず、どれだけでも反抗してきた人間です。望み通りには生きられないし、そのいい子を演じてきた姉のクッションの下で尊厳を失わずに生きてこれたという奇跡の人かも知れません。

姉には又、私とは違った長女ならではの苦悩があり、お互い親になってからこんな話はよくしています。姉にもnote書いて欲しいわ~

何より大きかったのは、そういう現状をすべてわかって包み込む父の存在のデカさです。結果を重視する母の強制の横で「でもジュンコは、準子らしゅうにしとったらええ」と。しかし誰にでも穏やかそうに見える父も、いけんことはいけん、駄目なもんはだめ、は態度ではっきりしていた人で、義を通す人間でした。広島の男だわ。
父親の在り方には 今も大きく影響を受けていると思う。

ファッションは、自身のシャドーこそが生きてくる。

そんな長所も短所も、自己分析して多面体にしていくというワークを、運営するファッションスクールMFJで行っていますが、ファッションにおいては、シャドー(短所といえる部分)こそが肝。

書き出していけば長所と短所は表裏一体であることにも気づき、シャドーを
魅力的に服に反映させる事だって出きる。
蓋を閉めたい部分こそ開示すれば自分は癒され、人々にとっては勇気になる時代です。

そんなことが外見からにじみ出ていたら素敵、というメソッドなんですよ。


家族の絶妙なバランスがあってこその自己形成

家族の絶妙なバランスがあったから、今の自分になっているわけで
また母の価値観に対する反抗精神がなかったら、、、と思うと別人格になっていたと思っています。周囲に言われるままに大学に行き、ファッションの道に進むこともなかっただろうなぁ。

人は皆、なぜこの世に生まれてきたのか、なぜこの母の元に、なぜこの父の元に。姉はなぜ、この人なのか、など理由があるのだと思う。
私にとってはこの家族であったことが、すべての修業でもあった。
同時に救いでもあったのだろう。

その意味も含めて自分自身であって、人は自分ひとりでは生きていけない。なぜ私がパーソナルに拘り、どうしてもこの仕事を作ってまでもやりたくてとなったのは、本当に運命だと思う。

家族という血がつながりながらも個性の塊である人間同士が同じ屋根の下で暮らし、沢山葛藤があったこと、なぜ母は「まんま」の私を変えようとするのか、その経験から、私自身の子育てには大きな教訓となり、私自身は彼らに理想を押し付けることは決してなかった。

どこまで「素」で自分の可能性を生かした人生を歩めるか。
子供達には、自分で自分の人生を掴んで欲しかった。だからこそ、人と同じでは逆に難しい、人との違いは一体何か、に向き合い続けて大人になり
それはそれでまた、しんどいところもあったという娘。
個性を重んじるあまり、素で普通がいいとする娘は、何か無理やり人との違いがなければいけないのか、と探し続けた時期もあるという。

そりゃ、個性最強な他3人(私 夫 息子)に囲まれて育つのって、考えてみたら地獄かも。
彼女は自身の素を生かして東京都教員になったけれど、娘の存在があってこそまた、我が家は平穏を保っているのだと心から感謝する。

そう、どう育てたとて、きっと「問い」は続くのだろう。だからこそ、親になるって、それだけで成長させてもらっているんでしょうね。

運営するファッションスクールを「自覚と問い」の学校としているのも、こうしたことの所以である。

私の場合は、私自身が、まんまを親に受け入れられ疑問や葛藤を持つことのなく育っていたら、この職業は生まれることはなかった。
母に認められようとして自分を無理に変えようとすれば発作が起きる。
大げさじゃなく、自分を生きるために早く家を飛び出したかった。

自分が、自分の道を見つけようと諦めなかったこと自体は、母親の「諦めない」というDNAがそうさせたともいえ、笑 すべてが因果なんでしょう。

不思議なものですね。

結果的に、服装の力を借りて、私は素の自分を生きれるようになった。
DNAをよいほうに生かし、パーソナルなファッションの探求と学ぶ人達のマインドフルファッションの真の習得、スタイル&アートへ昇華を諦めず、楽しんで美しく生きている。

今は純粋に「産んでくれてありがとう」と心底思えるし、まだまだ元気でいてほしいと母に伝えたい。

同窓会&東京滞在、帝国ホテル宿泊の目標が叶って本当によかった。

諦めないあなたの人生を見習って、私も思い描いていることを一つ一つ
この世で全うします。


帝国ホテル・フランス料理ラブスリーにて。堅苦しいお店ではなく、カジュアルOK.
半パンの外人さんはさすがに浮いていましたけどね。


追伸


ファッションと自分史 
これはとても深い関係があります。

アカデミーオブスタイル&アート マインドフルファッションジャパンでは
様々な形で、こうした学びを深めています。
DNA 自分の生い立ち 生き方 在り方 は自己表現とは切っても切れないものであって、トレンドや表面的な似合うを追っている間は、若くてスタイルがいい人が、どうしたって素敵に見える現実を越えることは出来ません。
それじゃファッション面白くないわな。


◆次期スクール入学希望者の皆様にはお待たせしている状況で申し訳ございません。お問い合わせも多々ありがとうございます。政近の仕事は学校がメインではなく現場でのスタイリング業務、講演会を優先しており、スケジュールの目処が立つ時期のみ開催していますが、継続はお約束いたします。

もう少し、まってね。

こうしたリアルな経験の中からも、更なる学びの進化を追及し、皆様に届けられるよう準備をしていきますね。


最後に
なぜ母のことを、つらつらと書いたのか。
自分は、もっと祖父祖母のことを知りたかった。そんなことを自分の子供達もいずれ思うんだろうと。
このnoteがいつか、もっと大人になった子供達に必要とされる日が来るだろうと感じるので、書き留めておくこととした。
勘弁してくれというほど長文ですが、人間には皆、こうしたDNAと親との関係性があるものでしょう。
かつて日記は自分だけの為に書いたものですが、見知らぬ誰かとも共有できる時代。

お付き合い、ありがとうございました。
っつーか 長すぎるじゃろ。


都会の景色も悪くないね。



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