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夢から醒めて

何も考えていなかった

立入禁止の場所に不法侵入しているのが警察か何かに見つかり、「やば。どうしよう」と焦りつつ、逃げ切れる自信は全くないのに条件反射で走り出したところで、心拍数が上がって目が覚めた。今思えばたしかに立入禁止でもおかしくないような、湖畔の荒れ地ではあった。でもそれに対して何の疑問も持たなかった。だから何か注意書きがあるかどうかとか、そういう確認をしようという発想もなく、のこのこと入っていった。行こうと思ったから行った。それだけだった。何も考えていなかった。

悪意もなければ何もない

警察に捕まったとして、なんでその場所に入ったのか聞かれても、説明のしようがなかった。その場所がたまたま立入禁止だっただけ。立入禁止の標示を見落としていたわけだから、それを破ってまで先に進もうという意思もなければ、他に何の意図もなかった。ただただ歩いていたらそこにいた。というだけで、理由なんてなかった。だから本当に説明のしようがない。何にも考えていない代わりに悪意もなかった。裏を返せば、悪意がある人はもっといろいろ考えているのかと思い感心しかけたが、悪意の有無と考えているかどうかは本当に関連しているのか、それぞれ独立している可能性はないのかという疑問がよぎり、思い直した。悪意はあるけど、考えなしに犯行してすぐ捕まる犯罪者とかいそうだし。まあ悪意に限らず、何らかの意図があれば、何かを考えるきっかけくらいにはなるのかもしれない。

タラバガニはカニじゃない

25年生きてきて、いかに自分が大して何も考えてこなかったか。最近ハッとすることがあった。自分の中では考えてきたつもりだったけれど、これは考えているとは言わないのかって、ようやく気がついた。考え方なんて人それぞれだからという話ではなく、そもそも考えていなかった。いろんなナッツがあるけれど、ピーナッツはナッツじゃないし、いろんなカニがいるけれど、タラバガニはカニじゃない。それと同じように、いろんな「考え」があるけれど、ぼくが考えだと思っていたものは、「考え」じゃない。ピーナッツは豆だし、タラバガニはヤドカリだし、「ぼくの考え」は思いつきだったんだと思う。タラバガニがカニじゃないことは、今さっき知って本当に驚いた。

「お前に何がわかる?」

ぼくは別にピーナッツにもタラバガニにも自分は詳しいとは思っていないから、「ピーナッツは実は豆です」「タラバガニは実はヤドカリです」と言われてもすんなり素直に受け入れられた。その説明を聞いても「なるほど、だからピーナッツは豆だし、タラバガニはヤドカリなんだ」って思えた。でも、「あなたの考えは、思いつきです」と言われると、「お前に何がわかる?」って思っちゃってなかなか気づけなかった。自分のことは自分が一番わかってるつもりになってて、素直になれなかった。自分の姿かたちは鏡や写真に写したりして確かめられるけれど、自分の思いや考えはどうやって確かめればいいのだろう。思いや考えって、内面にあって、心の目で見えてるから、確認するまでもないものだと思っていた。けれど、見えてるようで実は見えていないらしい。今までは、見えないものをただひたすらに信じているだけに過ぎなかった。

見えないものを写す鏡

ああ、言葉ってこういうときに使えるんだ。鏡や写真に写す代わりに、言葉に落とし込めばいいのか。今までは相手に伝える手段としか思ってなかったけど、自分で確認する手段として、鏡のようにも使えるのか。もちろん言語化では鏡や写真のように、「それそのままを一瞬で」写すことはできない。ちょっと違っても、時間がかかっても、それでもわざわざやるのは、他に代わる手段がないからこそなのかもしれないな。

間違い探しは複数人で

間違い探しで間違いを見つける順番が人それぞれ違うことからわかるように、人間はものごとの全体を詳細に見落としなくフラットに見ることってできない。人それぞれ見方に癖があるのだろう。だからこそ、言語化したものを他の人に見せることに意味があるのかもしれない。違う視点の意見がもらえる。人に相談するのって得意じゃないし、今まで必要性すらあまり感じてこなかったけど、こういうことなのかもな。間違い探しも、1人でやるより2人でやった方が早い。自分ではなかなか気づけなかった間違いに、他の人が簡単に気づくことがある。

本当にあった怖い話

ぼくは今まで人に相談することが苦手で、必要性を感じる場面がほとんどなかったが、それは必要性に気づけないほど何も考えてなかったということなのかもしれない。今から書くのは、本当にあった怖い話。心して読んでほしい。今までのぼくの(エセ)思考法がどんなものだったか。まず、いろんなアイディアを思いついては蹴って、思いついては蹴ってを繰り返して、あるとき「これだ」というアイディアを思いつく。以上。やっとの思いで捻り出したアイディアだから、ぼくはこれを自分の大事な「考え」だと思っていたし、このプロセスこそが、「考える」ということだと思い込んでいた。自分なりに考えてるつもりだったけど、考えるのが苦手だとか遅いだとか、そういう問題の前に、考え始めてすらいなかった。

単純なことしか考えられない

ぼくが「考えている」つもりだったとき、全てこのやり方でやっていたわけではないとは思う。思いたい。ただ、ちょっと複雑なことを考えるときはおそらくほぼ100%、このやり方だったのだと思う。論理的な思考が全くできないわけじゃないとは思うが、ゲームの中とか、買い物での商品選びとか、そういう小さいスケールでしかやってきていないかもしれない。ゲームってある程度考える範囲が決まってるから、その中で考えればいいけど、現実の問題って考えることが無限にあるから、めんどくさくて自然と避けていたのかもしれない。今思えば。でもこの文章だって、結構思いつきで書き進めている。最初にある程度書きたい流れを書き出したものの、今はそこから結構逸れてるし。思えば最近はもうほとんど「考える」ということをやっていないかもしれない。考える力も衰えてきてるかもしれない。自信がなくなってきた。

“昼飯思考法”は思考法じゃないが

ところで、このエセ思考法って、お昼ご飯に何食べたいか考えるときにはピッタリかもしれない。牛丼?違う。ナポリタン?違う。トンカツ?違う。カレーライス?これだ!!というわけで、今後ぼくはこの方法を“昼飯思考法”と呼ぶことにする。ぼくは過去に昼飯思考法で大学を中退する決断をした。でもあまり後悔はしていなくて、あの時の自分が決めたことだから仕方ないと思える。どんな高尚な考えに基づいていようと他人の決めたことに従うよりは、どんなにしょうもない考えでもその時の自分が納得して出した決断に従う方が、今から振り返ってみてもまだましだと思えるし、むしろそれが誇りに思える。これがぼくの価値観なのかもしれない。自分の今までのやり方に対して自虐的なネーミングをしているが、論理性が全てに勝ると言いたいわけではない。

あるのは結論だけ

昼飯思考法だと「これだ」というアイディアが出た時点で、心は決まってて迷いはないから相談する意味も必要性もない。それに、考えたことを言語化するのも苦手だと思ってたから、言語化の労力の割にきっと相手にも伝わらないんだろうなって思えて、やる気が出なかった。でも実際には考えがなかった。考えがないから、他の人に自分の決断について伝えるときは、結論だけ報告することしかできなかった。それでも自分の中では本当に真剣に考えているつもりだった。余談だが、「これだ」というアイディアが出る前に相談に乗ってもらったことが、覚えている限りでは一度だけある。ただ、相手に出してもらったアイディアを自覚なくあまりにもあっさり切り捨ててしまって、機嫌を損ねてしまった。

まだまだぼくはわかっていない

たくさん調べたり、考えたりして、でも自分の視点だけだと集める情報も偏りが出てくるから、そういうのを指摘してもらうために相談ってするのかもしれない。きっと多くの人は何を今更そんな当たり前のことに気づいているのかと思うかもしれない。でも、そんな人間として初歩的なこともまだまだぼくはわかっていない。相談の必要性をやっと少し理解した。今までは、決断力のない人が背中を押してもらうためにすることだと本気で思っていた。謙虚さに欠けていた。

凡人が「考える」には紙とペンが必要かも

説明が苦手、言語化が苦手で今まで済ましていたけど、そうじゃなくて、何も考えてないから言語化することがなかっただけだったんだと思う。言語化以前の問題だった。人に説明できるくらい考える。言語化できるレベルまで考える。これから考えるときはそれを目標にしようと思う。もしかしたら、考えることはほとんど言語化することと同じなのかもしれない。考えないと言語化できないし。言語化しないと考えられない。言語化しなくても考えられると思っていたけど、暗算の難しさを思うと、言語化して文字に起こしながらじゃないと考えられていないのかもしない。でも、暗算の得意な人が書かずに思考できるかというと、それはわからない。言葉と数値で使う脳みその部分が違うかもしれないし。暗算が得意な人の多くが算盤とか特別な訓練をしてるわけだから、もしかしたら脳内で正確に思考するのにも、そういう訓練は必要なのかもしれない。一部の天才を除いて。訓練もしていないのに、凡人は紙とペンも持たずに「考えている」なんて言えないわ。

「めんどくさい」は魔法の言葉

ここまでのこの文章は、ほとんどなんの根拠も裏付けもない思いつきで書いているので、何がどこまで合っているのかまるでわからない。思いつきだけでここまで書けるなら、その思いつきを一つ一つ裏付けられれば、だいぶ「思考」できそう。パッと調べてみた感じ、書く思考法は既にいろいろとありそうなので、その中から自分なりにピックアップして試してみたいと思う。たまたま調べた1個目、2個目が良さそうだからそれをやってみようだと、昼飯思考法でしかないので、ある程度調べて情報の取捨選択を行いつつ、自分との相性なども考えながら、優先順位をつけて試してみようと思う。その過程をまたnoteにまとめてみてもいいかもしれない。思いつくのはいいことでも悪いことでもないが、思いついただけだと何の意味もない。全ての思いつきに意味を持たせようとは思わないが、今後は思いつきの裏付けをできるだけめんどくさがらずにやっていきたい。仕事でも課題でもないのに、7時間かけて4400文字の文章を書くくらいには暇を持て余しているので。まあ人生の課題ではある。それにしても、「めんどくさい」ってつくづくやばい言葉だと思う。あらゆるやらない言い訳が「めんどくさい」の一言に集約されてしまう。言語化すらめんどくさがっている。めんどくさがりが作って、めんどくさがりによって広まっていった、めんどくさがりのための言葉って感じ。