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顔を覆いたい事実~息子と自然

駅の方向に歩いているとき、ある家の庭先にヨウシュヤマゴボウの実がなっているのを見つけた。
汁が滴らんばかりに熟した奥歯みたいな凹凸のワイン色の実、懐かしい!幼き頃の記憶が押し寄せる。触っちゃいけない、色がつくと落ちないから。ビニール袋に入れたっけ。これが生えていた林の一画の場所まで覚えている。もう林なんてないんだろうなあ。家だらけだろう。

芋づる式にいろんなことがよみがえった。数珠の実をたくさんとって中の繊維?を取り除き糸を通したこと、オナモミ集めたこと、マンションの水道のそばでしゃがんでオシロイバナの葉っぱチームと花チームで分かれて色水作ったこと。ススキの穂がゆれる秋の夕方、大量発生した大きな羽虫を何匹とらえられるか競争したことも。あれは近くの空き地だった。あたりが暗くなって見えなくなるまでやっていた。通りすがりの人は子どもが何人も踊り狂っているように見えただろう。

ひとしきり思い出した後、ハッとした。
顔を覆いたい事実。
息子にはこの手の体験がほとんどない。
彼の自然体験をかき集めてもわたしの子ども時代の一週間分にも満たないだろう。

環境が全く違う。わたしは埼玉県と千葉県で幼少期を過ごしたが、林や空き地が当たり前にあった。今住んでいるさいたま市浦和区にはほぼない。
今自分が自然派で自然こそいい、立ち返ろうと思ったりするのは幼き頃に自然と存分に関わったからかもしれない。自然と十分に触れ合っていない子はそういう発想に至れるのだろうか。

10年早く気がつくべきであった。気がついたって引っ越せるわけじゃないしできることに限りがあったろうけど、ボウっと意識せず過ごすよりましというもの。はて、どうしたらいいのだろう。

息子が大人になったときに思い出す子ども時代はどんなだろう。家の中で本に囲まれて本をむさぼり読んでいる自分の姿、家族と出かけた記憶、ちょびっとだけある友達と遊んだ記憶、学校だろうか。自然と戯れた記憶は那須でのことぐらいだろう。それだって大人のわたしたちといっしょだから、子どものわたしがしたようなこととは違う。

そんなことを考えていた昨日、よく覗く歴史上の偉人の格言を載せているブログにシェイクスピアの言葉。

福田尚弘さんのブログより。必要なときに必要な名言がくる。いつもありがとうございます😊


ひえ~!どうしよう!こちらを見透かしたような名言。

きっと「うちの子もそうですよ」「現代人はしかたないですよ」という声があるだろう。でも親としてもう少し自然の環境を設定するべきであった。

「自然でない行いは 自然でない混乱を生む」

シェイクスピアの言葉が返ってきた。

そうだ、所詮コントロールできることではない。
機会をもっと与えてあげるべきであったが後悔先に立たず。
息子の人生を、自然を見くびってはいけない。
自然って幼いころに自然と触れ合ってないからって「自然に立ち返ろう」という気持ちを人々に起こさせない程度の存在なのか。

わたしたちの遺伝子は知っているはず。
夕方、マンション七階の家に入る前に「きれいだね」と夕焼けを眺める息子がいる。

ちっぽけなことに動揺したかもしれない。
これから息子と自然を楽しむきっかけをもらったと思おう。
よかった、ありがとう。


心の模様をいつものですます調でなく綴ってみました。


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