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日々是妄想: 80-90年代のイメージとは?

美術史講義振返り、感想及び余談含む備忘録として

今日の美術史講義では90年代(若干80年代含)が中心だった。当時まだ生まれていない受講者もいて、おばちゃんはビビった💦
自分の場合で言えば文化服装学院を卒業して、アパレル業界でフルタイム勤務、結婚して離婚して、アメリカ留学(敵前逃亡、現実逃避)まあまあ忙しかった時期である。

以下余談

思い起こせば95年頃、オウム真理教関連で警察の訪問を受けたりもした。信者ではなく単に巻き込まれ、市民として事情聴取に協力しただけ。
因みに高円寺あたりに80年代居住していた人は記憶してるかも知れない。あの髭面の教祖が参議院に立候補、そのおぞましい選挙活動ときたら…トラウマになりそうだった。あれを見て神と思うなんて正気の沙汰とは思えない。
神の存在はある程度信じるけれど、あたかも神のように振る舞う人間なんぞ信じるに値しない。
所詮、人じゃん。舐めんなよ、ボケ❗️の一言で終了。自分のルールは自分で決める。
そこはDon’t touch me, I’m gonna make it.
それで良いのだ。

それはともかく歴史である。

1限目: 1990年代のアート 西洋中心主義への疑いと表現の多様化
テクノロジーが急速に変化し芸術表現のメディアが変わり始めた年代。
モダン→ポストモダン あくまでも西洋の歴史の物差しであり、はっきりした境目も年代区分もない。
大きな物語と価値観→前提としてある大きな物語と価値観への疑い
60年代から始まった体制に対する不信感が全体に行き渡り、表面化した。
そこにテクノロジーの進化と一般化が始まった。
今日のSNS情報化社会の端緒でもある。
可視化した物事、課題を観察し考察した上で、身体感覚と感性を使って自分がどこに立っているのか認識することがポイントか? 
信じていたはずの神が存在感を失い、神不在、神に代わり台頭したのはインターネット。
美術は完成品としての作品だけに留まらず、関係性と行為自体も含まれ、範囲が広がった。アートプロジェクト、コレクティブの始まりとも。
アーティストが作品に込める意図が政治的であったり、マイノリティの可視化を指し示すなど文脈へのこだわりが顕著化。
直接的というよりはイメージの構築に近く、そこに歴史の文脈も含まれる。
美術表現に社会状況が反映され、イメージは現実世界ではない物事にフォーカスすることで、逆にリアリティを帯びることもある。見えていることが全てではない。見えない現実、或いは隠された事象を見つめる眼差しが重要。

モダンとポストモダン
境界があるようでない、区分が出来るようで出来ない。
西洋と日本の近代の始まりと成り立ち自体に時間的、歴史観などの隔たりが大きいことも理解しづらい原因だと思う。西洋の文脈と歴史に当てはめることはできないし、独自に日本美術史として考察する必要はあると思う。
グローバリゼーションによって均質化するというより、その根本の成り立ち、スタート時点の違いをわかっていないと後の時代への視点が違ってくるのではないか。その差異を知る意味含め、西洋美術史、それも近代以降を学ぶ意味はある。
やればやるほど、歴史は掘り起こされ興味深い。
しかし2000年生まれってなぁ…そこは隔たりあって当然だよなぁ。

2限目: 他者とは誰か?

いきなりサイードの『オリエンタリズム』が出てきてあちゃー😣と思った。参考文献として本は買ったけど挫折したヤツ…そこなぁ…。確かにねぇと思いつつ、本棚を探す。

二項対立の構図 
最初に挙げられた事柄が優位性を持つという特徴がある。なるほどな。
自己⇔他者
善⇔悪
精神⇔身体
現前⇔表象 *芸術に関係するのはここ
現前がライブパフォーマンスで今、ここで起きていることを意味する。
表象には再現、模倣?の意味があり絵画、写真、彫刻が含まれる…これってミメーシスのこと?プラトンの呪いか…?
文化人類学の視点から芸術を考える作法はずっと気になっている。人が何をどうして発達し生きながらえ、今日の社会と文化を作り出したのか。芸術はその過程でどういう役割を果たしたのか。
発達と発展の結果で起きた分断は、西洋中心主義から派生している。サイードの『オリエンタリズム』は白人優位の上から目線を批判した。
自己が西洋であり対する他者は非西洋で非白人。
そこにはどうしても相容れない感性があって当然なのに無理に合わせようとするから齟齬が生じたのが明治だったのでは?
その齟齬は埋められることなく妙な方向に…挙句の果てに迷走してる気がする。
他者の存在を意識して知ることは翻って自己を見つめ直すことに繋がる。そして不都合な真実を冷静に観察し考察して新たな気づきを得る。
学ぶってその為の基礎体力をつける事かもしれない。自分の中である時、閃いて繋がる。自分から学ぶことに無駄はない。筈である…。

最後の参考文献欄にスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』を発見。
列強の植民地主義と理不尽な差別があった歴史を知っていたら読む気になったかも知れない芸術史の参考文献。積読で見た気がするのは気のせいか?
やる気はあったのにねぇ…😅

最初の10ページくらいしか読んだ形跡がない😅


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