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判断すれども裁かない

「判断すれども裁かない」
これが私のスタンスなんです。人に対しては特にそう。

この人が自分に人生にとって良い影響を与えてくれるか否か。良い影響を与えてくれると思えばお付き合いをします。

そうでないのなら自分から去るのみです。仕事上でのお付き合いがある場合には仕事以外で立ち入らない、立ち入らせないを貫きます。もちろん、挨拶と返事と仕事は丁寧にしますし時間も守ります。金銭上のやりとりはさらにキッチリして、その人との仕事が終わったら二度と一緒に仕事をするものかと思いつつも形式上笑顔で気持ちよく去れるように行動します。

この人と一緒に仕事をしたらトラブルが起こる、誰かが嫌な思いをする、それは判断。ただし、裁かない。裁くって怖いですよね。自分を何様だと思っているのでしょう?の世界です。
私にとっては嫌な人でも、その人のパートナーにしてみれば愛する人です。ひょっとしたら私の見識が狭いだけで、本当は私の方が迷惑をかけている場合もあるかもしれません。

法に反することをしたら法で裁かれますが、私たちの仕事上や普段の人間関係でお付き合いする人たちでの困った人は、法を犯すまでの人は殆どいません。人に対して嫌な態度を取るとか、成長意欲がまったくないとか、時間やお金や返事がルーズだとか、服装がだらしないとか、ほぼそういう人たちです。

裁くとは、理非をあきらかにすることです。理非とは道理に合っているかそうではないこと。適正であるかそうでないかのことです。人によって時間のものさしは違いますし、これぐらいは許されるだろうの感覚も違います。道理と適正の基準はそれぞれで実に曖昧です。ですから私が思う一般人的な感覚で裁くとは、されたことに対し、感情に任せて人に悪意を抱くこと、もしくは悪口を言いふらすことだと私は考えています。
潜在意識のシステムには「与えて受け取る」がありますが、人に悪意を持つことは自分に与えてそれを受け取ることになります。言い方をかえると、「人を呪わば穴二つ」に近いです。怖いことです。

重複しますが、人に対しては「判断すれども裁かない」
このスタンスは崩さずに生きていこうと思っています。こちらでどうこうせずとも問題を起こす人というのは世間から見放されていきます。それが裁きです。

私は、自分から優しくできない人にも近づきません。優しくできないと思うこと自体、その人によからぬ判断を持っているからです。判断して裁かず、近づかない。ちょっと傲慢に受け取られるかもしれませんが、それが私のその人に対しての優しさなんです。

ジャガイモと人参と玉ねぎ、そして鰹の煮物を作りました。これから5キロ走ってきます!

山下純子

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