依存とはいったい何なのか

こんばんは。お疲れ様です。

タイトルからしてやや重めなテーマではありますが、今日は「依存」について私が感じたことをここに置いてみようと思います。

私は今まで、それなりに多くのものに依存してきたように思います。

中学までは成績が良かったのもあり、勉強で人に褒められたい、認められたいという承認依存。高校では成績が一気に下がったものの、部活の頑張りは他人に認めてもらいたいという承認依存。

自分がどのように振舞うかによって周囲の人がどのように影響を受けるかが決まる、自分がどんな状況に置かれたとしても人助けを何が何でもするべきである、周囲の人が不機嫌なのは自分のせいだから自分が振る舞いを改めなければならないという責任感。

うまくできないからやりたくない、このnoteみたいに、思ったことを思うがままに書きたいだけ書けばいいのに、立派な記事を書くだけの時間が取れないなら一旦置いておこうというような完璧主義。

前にお付き合いしていた彼女から自分に愛情が向けられていないときの不安、幸福感が得られない、というような愛情依存。

自分が難易度の高いこの仕事を引き受けたらたくさん失敗してしまう。失敗はできないのだから引き受けるべきではないかもしれないと思ってしまうような業績依存。

これらの「依存」はどれも中毒で、そこに執着している限りその抽象度、そのレイヤーでしか物事を考えられなくなります。

でも、これらの毒を抜くことができれば私たちは1つ上の抽象度から物事を見渡すことができますし、want toに素直に生きていくことができます。

そんなことはわかっているのに、最近まで自分が抜けていなかったと感じるのが愛情依存です。正直に全部書きます。

今まで、例えば好きな人ができてもそのコミュニティの秩序を守るためという建前、そして本当は告白して失敗して傷ついてそのコミュニティで仲間外れにされて立場を追われるのが心底怖いという本音を引っ提げて、アクションを起こさないという判定をし続けてきました。

実に情けない話ですが、これが事実です。

学生時代にお付き合いしていた彼女とはお別れをし、就職後に地方に移住してもう4年ほどたちました。

地方では一度は彼女ができましたが、私の愛情依存が発動、相手を束縛したり傷つけたりすることは一切なかったものの、自分の考えもろくに伝えることができずに心の中はぐちゃぐちゃになりました。ほどなくして相談の場を持ち、お別れをしました。

コーチングスクールで学び始めたばかりの当時は現状の外のゴール設定とその決断により自分の目の前が目まぐるしく変わっている最中で、さらに仕事も多忙を極めて、地獄に落ちた気分でした。

その時に改めて、愛情依存の自分を見つめなおし、孤立したとしても不幸にはならないとか、愛されなくても幸せだというのを腹落ちするまでひたすら考えました。思ったよりもすんなり立ち直れたのですが、その後食事に行くことになり、久々に会うことになりました。

会うとなぜか愛情依存が発動しているような気がするのです。無意識的に「この人に好かれたい」と思っていないか?それは依存だぞと思っても、何か引っかかるものがあるのです。

この人を忘れるためにほかの人と連絡を取ってみようと頭に浮かびましたが、これも依存先を変更しているだけで、やっていること、思考のレイヤーは変わっていないのです。

最近はこのことと向き合うようにして、ひたすらに「その人が自分の前からいなくなっても、その喪失感を埋めてくれる人は身の回りにすでにいる」ということを考え続けました。ようやく落ち着いてきたように思います。

「いい年なんだから結婚しないと」というのもやめることにしました。そんなhave toで結婚するってお相手を含めた関係各所、そして自分自身にスーパー失礼だからです。当たり前の話ですが、無意識的にこの思考が入ってきてしまうとwant toの純度は下がってしまいます。

仕事の話でいけば、自分が斜陽産業にいるとして、「お前の業界終わってるよな」と友人に言われたとしたって、その仕事、職業機能がwant toなら間違いなくやるべきです。そんな一般論に承認される必要はないわけです。

そんなことを思いました。

まとまりがないですが、眠くなったので寝ます。おやすみなさい!


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