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音楽の自明性を見失っています

「クラシック音楽史 + ポピュラー音楽史」の通史が西洋植民地主義音楽史・帝国主義音楽史観であるという指摘が、ここにきてずっと心に引っかかっています。

いや別に、僕のはじめのほうの記事をよくよく読んでみたら既にちゃんと、「クラシック = 19世紀ヨーロッパ」「ポピュラー = 20世紀アメリカ」ということは記載しているし、民俗音楽の存在にも軽く触れた上で、譜面という権力によって成り立ってきた西洋音楽史を追っていく、ということまで書いていました。なので西洋視点というのははじめから自覚してたはずです。

ですがそれでも、その視点をアカデミズムは反省し、歴史を記すということに慎重になって避けているのだとしたら、僕のnoteで歴史を書いてきた行為は「悪」だったということなのだろうか、と、モヤモヤしています。

ただやはり、世界各地の戦争の根源である資源問題を学者が反省してみたところで、我々は電気やガスや石油製品を手放して生活することはできないのと同じように、もう既にシステムの深い深いところまで入り込んで組み込まれ、西洋音階と西洋楽器によって成り立つ音楽が文化の基盤となってしまって、広義での西洋音楽のシステムは手放すことができない段階にまで来てしまっているでしょう。

アカデミズムが記述に慎重になっているあいだにも、日々新しいポピュラー音楽が発信され、受容され、実践されています。それぞれの文化はそれぞれの場で発達し、歴史観を共有しています。

それぞれの音楽好きが「音楽が好きならこれを好きになれ」「音楽にはこんな素晴らしいものがある」とされてきたものを寄せ集めて、僕は外側から整理したまでです。机上でいくら批判したところで、現場を無視した学者だけの世界の論理になるのみじゃないですか。

視点の反省から民俗音楽や各地各国の土着文化にまで触れるべきだったとしても、僕には情報も実感も少なすぎたし、それをやるためのとてつもない労力を費やす体力や興味はありませんでした。いずれ非西洋音楽まで含めた全・音楽史も誰かがまとめてどこかに出てくるのが望まれますが、それは今のところ僕の仕事では無いです。

ただ、一方で、僕は音楽史を調べている最中、随分前から既にずっと、「別にバッハやビートルズを崇拝する必要性なんて無いよなあ」と心の1番奥の部分で感じていたことも改めて思い出しました。僕は音楽そのものは本当に大好きであるにもかかわらず、各ジャンルそれぞれの界隈で"常識"となっているものに入り込めなかったり共感できなかったりした、という経験が、むしろあの通史をまとめようと思う動機だったぐらいですから。

もしクラシック史 + ポピュラー史が、西洋植民地主義の補強になっていて、固定化された視点を見直していかなければならないのであればむしろ、もともと持っていた僕の感覚のほうが正しいじゃねーか!とも思います。何を各ジャンルの「音楽好き」どもにお伺いを立てて、リスペクトする必要があったのか。何をこんなに"勉強"する必要があったのか。何が「みんな違ってみんな良い」だ。クソが。

だがしかし、ではその僕の持っている根源的な感覚というのは西洋音楽を批判しうる非西洋音楽的なものなのか、と言われれば、全く違います。西洋音階に支えられた、同じ穴の狢であることは確かです。

結局のところ、自分のその音楽感覚は何なのか、自分の音楽的アイデンティティの正体はなんなのか、という疑問がスタート地点であり、西洋音楽史だけ追ってみてもその正解は出ませんでした。日本のことまで調べないと、やはりまだ見えていないものがあるのだと思います。

一つ言えることは、僕は小さい頃からヤマハ音楽教室に通ってピアノとエレクトーンを習ってきました。そして、絶対音感を持っています。その要素はかなり大きいはずです。今さら自己紹介になってしまいますが。

ヤマハの音楽教育が地盤にあるということは、僕の音感はピアノでのクラシックと、エレクトーンでのJフュージョン的なものが主な根底にある。そして、そのエレクトーン的価値観と世の中や同級生たちとの音楽観とのギャップからJpopや邦ロックを聴き始めている。その後、チャペルオルガニストのアルバイトをしたりしながら、ビバップを演奏するジャズ研に入り、他大との交流の中でコンテンポラリージャズやネオソウルの界隈へ行き、ファンクセッションのミュージシャンとつながりながらJPOPのサポートなどもするようになった。一方で、サカナクションを好きになったことをきっかけにしてハウス、テクノ、クラブミュージックや洋楽ロック、フォークソングなども無視できなくなってきた。

僕の音楽遍歴をこうまとめて書くと、あの音楽史の視点も納得していただけるでしょうか。

ロキノン的な見方とは相性が悪いですが、ヤマハの教育システムというのはかなり優秀なものです。少なくとも僕の経験上、学校での音楽教育というものは現状まったく機能しておらず無意味なレベルなので、日本の音楽文化はヤマハが支えていると言っても過言ではないと思います。特に非ロキノン的な部分は。

世界のジャズシーンで活躍する上原ひろみさんも、狭間美帆さんも、ヤマハ・エレクトーンの出身です。Jpopのプロデューサーや鍵盤系のミュージシャンも、ヤマハ出身のプレイヤーが大多数なはずです。そういえば、初音ミクもヤマハが絡んでいますね。

日本人の音楽文化におけるヤマハの功罪については非常に重要だと思うのに、驚くほど評論が無く、エレクトーンを習ってきた僕が書けることはたくさんあると思うので、その他はっぴいえんど史観だのロキノンだのAKBだのボカロだのまで含めて、ざっくりと日本の音楽史を勉強したのち、なんとなく骨組みが把握できたころには、またこのnoteか何かで書いていきたいと思います。本当に何年後になるかわからないですが。それよりも手前で、自分の人生としてやるべき課題も山積しているから、こんなnoteにうつつを抜かしている場合ではなかったわ、そういえば。笑

ではまた。

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