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個人的に考えてみた資本の独占ー貧富の差が産まれる理由

資本主義は、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなると言われています。どうしてそうなるのか、自分の頭で考えてみました。

日本国内に限定して考えてみます。日本で流通している貨幣と言えば円ですが、無限にあるように思える円も、やっぱり有限です。

国家予算が大体100兆円であるとして、日本人全員の総資産を合わせて、1000兆円くらいだとしましょう。

私たち個人個人は、このうちのわずか0.00000~%くらいしか持っていませんね。

少し規模が大きすぎますので、計算が大変です。数を小さくして考えてみましょう。

全体の資産は1億円。日本に住んでいる人口が10000人だとします。つまり、10000人全員のお金を合わせると1億円です。

ここで、経済ゲームがスタートしました。
まず、私たちは、毎日お腹がすくので、食べ物を食べる必要があります。これだけは最低限必要です。そのため、全員が生産者になります。この時、全員が米だけを作ってしまうのは栄養面から具合が悪いし、一人であらゆる生産物を作ることはできないので、10000人に凝縮したことをいいことに、1人1品を生産すると考えます。

また、道具などは、江戸時代に帰った気になって、自分で工作をして作ったということにします。生産物が出来るまでは、狩猟採集で何とか生計を立てます。

生産がスタートしました。するとすぐに、人気の生産物を作ることのできる農家と、あまり人気のない生産物を作る農家に分離します。みんな人気の生産物には多くお金を使いますから、必然的に人気の生産物を作る農家に富が集まります。

例えば、米が人気の作物であるとしましょう。

日本全体のお金は1億円で、仮に10000人が最初は均等にお金を持っていたとしても、時間がたてば、米農家に多くお金が渡ります。ということは、米農家以外の人たちが持っているお金は、相対的に少なくなっていきます。
こうなると、人気順位2位、3位、4位、5位の家は、あるいはこのあたりだと増える一方でしょうが、下から数えた10000位~の農家なんていうのは、出ていくばっかりでなかなか自分のところにお金が入ってきません。

大切なのはここです。何か一つ人気の物を作れば、それに対して富が集まります。そして、どうしてもそれ以外の人たちの財産は減少するのです。この状態が作られてしまうのです。

後は時間の問題です。ちゃんとしたものさえ作っていれば、お金はどんどん米農家にたまっていきます。一方で、米農家はお金持ちになったのはいいのですが、結局は1人にしかすぎません。1人の人間が自分のために必要とする物品なんて、たかが知れています。つまり、米農家には、使われないお金が大量にプールされます。そしてそれは、市場全体を流れるお金の量が、次第に減少してしまうことを意味します。

時間がドンドン立ち、とうとう米農家は、1億円のうち、1000万円さえをも所有するようになりました。10000位だった農家は没落し、一家は離散し、心中しました。あるいは借金を返さなければならなくなりまして、どんどん貧しくなり、乞食化しました。

実際こんな単純なモデルでは社会は動いていません。ですが、この仕組みは今も経済の中に生きていると考えられます。

経済では、人気のほかに、消費性向を決定するもっといい要素があります。
それは、生活必需品レベルにまで地位を高めた商品です。

今も昔も大切なのは不動産ですが、最近になって最もメジャーになったのが、スマートフォンやアイフォンなどの携帯電話でしょう。これを持つかどうかというところには、もはや持たないという選択の自由が限りなく少なくなっており、絶対にお金を使わななければならない・・・という状況の人も多くいるわけです。

そうなると、単純に考えて、富は携帯電話を販売している会社に集まっていきます。

そして、必ず不動産の家賃だの、携帯電話など、また光熱費だのと、インフラ関連に必須の費用が必ずかかるため、それ以外の業種の人たちの持ち金は、恐らく相対的に少なくなっていくはずです。一方、必需品を売るその人たちは、自分達の商売道具をそのまま使えちゃったりして、費用を支払わなくて済んでいるかもしれません。

そうなると、人々の稼ぎがすくなければ、その分生活必需品に全てお金が払われて行くことになります。となれば、結局どういうことになるかというと、必需品を販売している店以外の店には、稼ぎの少ない人間たちの所得から処分される金銭は、かなり少なくなっていく、ということになります。先ほどの農家のモデルと同じですね。

 必需品で稼いでいるお店の人たちは、その必需品を購入せざるを得ない人々よりも多く稼げるわけですけれども、やっぱり相対的に数は少ないのです。ということは、どれだけお金持ちが自分のためにお金を使ったとしても、たかが知れている。ということになります。

 中には派手にお金を使う人もいるでしょうけれども、もし倹約家がいたら、余計にその状態が強固になっていくことになるはずです。

 とにかく、お金が集中的に集まるところと、そうではないところがあって、そのお金が集中的に集まるところは、それ以外の場所と比べると、相対的に規模が小さい。そのお金はプールされることが多く、あまり使われない状態が産まれる。これが大抵の場合、良く起きる現象なのでしょう。

時間が過ぎれば過ぎるほど、自分のところには富が集中してくる。だけど、自分はそんなにお金つかわないし・・・。もっとお金を使って、いろいろな人の生産物を購入してあげれば、その人たちも潤うのですが、そういうことは、普通はありません。なぜなら必要性を感じていないからです。経済は需要と供給なので、そのお金持ち一人の需要なんて、全体の需要と比べれば、ちっぽけなものなのです。そのため、他の人たちは、相対的に、より貧しくなっていきます。

そして、人気商品を持っている人が、10000人のうち、100人程度まで増えたとしましょう。残りの9900人は、大体その100人の商品にお金を使います。すると、その100人に富が集中することになります。

1人の時と同じで、その100人が、お金をあまり使わない人たちだと、9900人の方に、お金が回ってくることがなくなります。例え使ったとしても、たった9900人の商売に対して、たったの100人分の需要です。

では、この100人を度外視して、9900人の中を覗いてみましょう。そうすると、100人対9900人と同じ図式が、この9900人の中でもある程度発生しているのではないかと考えられます。

このまま放っておくと、1億円の割合は、どんどんその100人に集中していきます。そして、9900人の中の人気な分野に集中していきます。仮にこれも100人だとすると、9800人の富は200人へよくわたっていくことになります。そして、9800人の中の富はさらに・・・、ということです。

こうして、富者と貧者が別れるのではないでしょうか。

実際、資本主義の仕組みが動くのは商売の上ですから、商売に限定して考えているのですが、商売でお金を稼ぐというのは、その人間の精神力とか、使った時間とか、そういうものはほとんど関係ありません。

商品が需要のあるものであるかどうか・・・。これが全てだと私は思います。

いろいろと社長の人格やら戦略やら、そういうものが取りざたされますが、全部まとめて簡単にいっちゃえば、全ての行動は、商品への需要をいかに生み出すかにかかっているし、意味のありそうな言動なども、全て、ここに意識を向かわせるために行われているのだと私は考えています。

お金持ちの正体は、その人自身の人柄に非ず。如何にその商品への需要を創り出しているのか、ということにあるように思います。つまり、そうした商品を創り出す根本的な知識、発想力、そして、その価値を売り込むこと、そうしたものを提供できる存在であるということが最も大切になります。あらゆるアピールは、さりげない様々な活動は、全てこのためにあるのではないかと。

どれだけあれやこれやと動いても、商品が悪ければ何にもならないと思います。

そのため、私は社長さんがあーだこーだとか、そういうのはあまり信用しません。メディアはワッショイか集中攻撃のどちらかに傾くことは普通だと思っているからだし、皆の前で自分の悪いことを言うはずがなく、たいていは、事前に何かセンセーショナルな台詞を準備してきているはずだからです。とすれば、個人の能力の高さも、お金持ちであるかどうかとは全く直結しません。その能力が、結局は需要と結びついていなければ、お金を稼ぐということについては、意味がないのです。

商品がいいものであるにもかかわらず、自分の商品以外のものが購入されているのであるとすれば、宣伝など、その商品へ向けての需要を引き付ける過程がうまくできていないからだと考えられます。

私の出している本は、需要がありません。だけど自信はあるんだけどな~。


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