自然権を理解しよう 補講 死刑制度について、先生の立場ってどこにあるの?
(6/12)すいません。この内容は、私が出版させていただいている本の内容には書かれておりません。一応断りを入れさせていただきます。
自然権を理解しよう シリーズもそれなりに回数を積み重ねてきました。
さて、果たして私自身は死刑制度をどう考えているのでしょうか。
死刑制度はあるべきか、それともないべきか。嫌味なことを言いますが、関心を持っていない人は大多数ですよね。
実は私もどっちでもいいかな~って考えている気持ち、あるんですよ。実際、どちらも正解じゃないですから。
国民が、どっちがいいかと考えることですから。つまり、死刑は正しいかどうかではなく、国民がどっちがいいと思うかに依ってしまう、ただそれだけと言えばそれだけなのです。
否定論者がよく言うことは、冤罪による死刑が多発することです。日本は実際、冤罪が多いと言われています。
賛成論者がよく言うことは、何と云っても抑止力です。
ところが、最近死刑にはならないように計算し、自分が刑務所で生きていけるように犯罪を犯す者が現れてきました。実際、この世界で地道に生きることの方が、刑務所で暮らすよりもずっと生きづらいと感じているわけです。身勝手な理由ですが、気持ちがわからないわけではありませんね。
森鴎外の小説「高瀬船」でも、弟殺しの犯人から、そのような心理を読み取ることができます。
多くの人は、実のところ犯罪を犯したくないから犯さないのではなくて、犯しちゃうと痛い目を見ると思っているから犯さない、ということは、今まで何度か述べてきたことです。
どうしてかと言うと、なぜ人が犯罪を犯してしまうのかと言うと、犯罪を犯した先には、私たちが共通して心地よく感じる快楽が待っているからです。私たちが善人であろうと悪人であろうと、快楽を快楽と感じる感覚は絶対にあるのです。
恨みに思った人間が死ねばスカッとします。そこまではしなくとも、苦しんで辛い思いをしていると思えばやっぱりどこか小気味よく思うものなのです。これはそこらへんのご近所さんたちも持ち合わせている普通の感情だと思います。
犯罪となる行為をしたいと思っている人間は、普通にいるのです。その典型的な例が、いじめや盗撮事件、わいせつ事件などでしょう。いじめの加害者というのは、犯罪者とは評価されなかった犯罪者です。やはり彼らの狙いも、彼らなりの快楽のためです。逆に、快楽が得られず、不快ばかりを感じられると、人は不快からの離脱を計ります。快楽を得るか、不快から離脱するか。そのどちらも犯罪行為への動機になりえます。
例えば、勉強のできる優等生をいじめるということはあり得ます。台湾のオードリー・タンさんは学校でいじめを食らった人です。優秀な人間がいると、周りは自信を無くしたりして、不快感を持ちます。人間は不快感を感じ続けたくはありませんから、そこから離脱しようとするわけです。自分も努力して地道にその心理状態から離脱しようとは考えません。即座に離脱するためには、相手を攻撃するのが手っ取り早いわけです。
人の不幸は蜜の味、と言う言葉があるように、例え犯罪とは言われていなくても、他者の損害を喜ぶ心は常に人の心に潜んでいます。私はきれいごとを言うのがあまり好きじゃないので、言ってしまいます。
実際はこういう物事の方が多いので、人は他者を信頼することも難しい状態になっています。
私たち個人個人は、人を殺害できる権利を持っています。死刑はその権利の集合体でした。そして、法律次第でその権利を制限することはできます。従って、死刑は制度としては否定することができます。
しかし、人を殺害できる権利は、私たち自身が生まれながらにして有している権利であり、不可侵の権利です。実は、殺人権は基本的人権なのです。死刑は制度としては否定し、なくすことはできても、国民の殺人権を奪うことはできません。で、殺人をできるくらいの権利があるのだから、人をいじめる権利や、盗撮する権利、わいせつ行為を行う権利も、実は我々に当然備わっているのです。(別に、やれと言っているわけではありませんよ?)
で、そういう犯罪者ならぬ犯罪者たちが学校にはいるわけです。じゃあ、自分の身を守るには、もうその犯罪者たちに対抗する力を付けるしかない、と言うのが現実です。いじめはやめよう!でなくなれば苦労はしません。いじめの根源は、加害者たちの心の中にある不快感から離脱したいという心と、快楽を感じたいという心が起因となるからです。
実際、恐ろしい話をしているな・・・と私自身思います。私だって人が人を殺すような世の中っていうのは嫌ですし、私は殺したくもなければ殺されたくもありません。しかし、現実に人が死ぬ原因の第一位は他殺です。
交通事故もよく起きるわけだし、殺人事件もよく発生するわけだし、世界でも戦争が今起きていますし。
これらは、殺人を犯す権利を行使しているということ。さらに、恐ろしいことを言いますが、人が人を殺す世界の方が、実は正常であるということ。殺さない世界は、むしろ異常なのです。皆忘れていることですが、この世界はとてつもなく残酷な世の中なのです。
ですが、私たちはその異常な世界を理想として進んでいきます。
私はこのシリーズ記事を書く時、冒頭で、戦争は必ず起こると言いました。なぜならば、私は「平和」とは人間の空想の中にあるもので、一種のバブルではないかと考えているからです。「平和」を保つには、実はそのために多くの命が犠牲になる必要があるのではないか。そして、その供給が途絶えた時、悲しい事実ですが、爆発をするのだと。私はそうなのだと考えています。
日本は戦争がないという意味で平和な時代を継続してきました。ですが、それももうそんなに長くは続かないと思っています。
私は毎日努力しています。今生きていられることに感謝して、毎日努力することを目標にしています。私が生きていられるのは、多数の犠牲者のおかげだと思っています。
死刑に賛成か反対か。とか、法律を整えようとか、私は法律を語っていながら、これでは全く問題は解決しないと思っています。
法律を変えるのではなく、結局人間が変わらなきゃだめだなと。いくら弁護士や裁判官、検察官が世の中に排出されても、いくら警察官が増えても、この世界がよくなることは全くありませんでした。彼らはむしろ、犯罪者がいてくれた方が飯のくいっぱぐれがなく、もめごとが起きてくれてた方がいいくらいなのです。
だからこう考えます。死刑を廃止しろとかどうとかよりも、人間自身をもっと鍛えなければならないと。
人間自体が鍛えられたら、簡単に考えると犯罪が減るとします。すると、自然と死刑になるような犯罪を犯す人間もいなくなり、死刑を廃止しろとかっていう議論も、そもそも無駄な議論にさえなるわけです。だってそこまでする人もいなくなるから。
で、長くなりましたが、その思いとは裏腹に、この世界は却って人間を弱くする方向にばかり進んでいっている気がしてなりません。例えば過去記事の、「試験制度は却って人間を弱くするのではないか?」という記事でも書いたように、私たちが当然と思っていることや、常識と思っていることの中にも、私たちが弱くなっていく罠が潜んでいる気がしてならないのです。
善人も悪人も、快楽を快楽と感じる感覚に違いはありません。人が犯罪に手を染めてしまうのは、犯罪によって快楽を手に入れられると考えるからです。詐欺で一攫千金を稼げたらそりゃ金を手に入れた時点で、快楽でしょう。
で、そもそもどうして快楽を手に入れたいと考えるのかと言うと、又話が長くなるのですが、その人間が弱いからです。
弱い・・・その言葉は非常にあいまいです。何をもって弱いというのか。私は弱い人間というのは、すぐに快楽を感じたがり、不快から安易に逃れようとする人間だと思っています。ひいてはこういう人間が結局犯罪まがいの行為に走ってしまうのだと思います。
で、結局こういう人間は、犯罪を犯したいと思う気持ちと、犯罪を犯したら嫌な目に合ったらどうしよう、ということを天秤にかけて自分の行動を抑制しているだけであって、結局のところ内面は快楽を感じ、不快感から逃れたいと思う心でいっぱいなのだと考えます。
反対に、人間の強さとは、常に自分の確かなる行動に依ってのみ快楽を感じ、不快感には耐えうるものだと、不快感から脱却するのは、自分の地道な努力によるものと思っています。これが我慢強さの一つですね。
じゃあ、具体的にどうするのか?昔の精神論。我慢が大切!とか言っても、今の人には響かないんですよね。
ここが一番大切なのに、一番端折りますが、人を成り立たせるのは、「文」の力です。今の人間には「文」がない。ここが基本なのに。
まとめ
死刑制度を無くすとか、存続させるとかっていうよりも、
もっと人を強くすることに目を向けた方がいいです。
法律は、人間がいるからこそ生まれるものだから、法律をどれだけ鍛えても、人間が駄目になれば意味がない。でも法律を良くしなきゃって考える人が多いので、結局支配がドンドン強くなるだけだし、法律を変えても人は変わらない。
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