フォロワーが減るとショックな理由 離れたフォロワーさんたちへのメッセージ

フォロワー数やスキ数なんて気にしない。自分の書きたいことを書くのが大事だ。それは理屈の上ではわかっているんですが、フォロワーが減った時、やっぱり何か考えちゃうんです。

でも逆に、フォロワーが増えた時も考えちゃう。この人は一体私のどこを気に入ってくれたんだろう?どんな記事を気に入ってくれたんだろう?と。

でも、人の心を推測しても、具体的にガチっと来るものはなかなか見つけられない。人の心は不可解なところがある。フォロワーが増えた時は、前の記事がその人の心にフィットするものがあったんだろうなってくらいしか考えない。

後は記事の内容とは無関係の、ノート上のテクニックで、私がたまたま選ばれたんだろう、ということ。

フォロワーが減った時の方が、その理由を考えることが多い。でも、これも増えた時と同じで、それ以前に出した数個の記事のどれかに、その人が嫌だと思う内容が含まれていたんじゃないかって思うこと。あるいは、フォロワーになろうと思ったときは、興味モテそうだなと思ったけど、最近はつまらない記事ばかりだなとか。

私は文学を扱うことがあり、文学とは人間社会への批判を込めることがある。それが原因で、誰かを傷つけちゃったかなって思うんだよね。私も良心を持っている。これがショックを受けてしまう一つの理由。

1.良心があるから

良心とは、相手を何らかの理由で傷つけてしまったと感じた時、自分自身さえもが傷ついてしまう感情だ。例えば『明日のジョー』のジョーは、対戦相手の顎を壊してしまったり、自分のテンプルブローが原因で、永遠のライバルである力石を殺してしまったりした。そのことが原因で、ジョーの良心は傷つき、彼は顔を殴ることができなくなってしまうのだった。

だから、私も良心が傷ついていくと、段々と人を批判する内容や、そうした意味をどこかに込めた文章を書くことが怖くなる。何かを発言することが怖くなる。きっと私の発言には、棘があって、どこかで誰かを傷つけてしまうと感じるからだ。

だから、当たり障りのないことだけを書こうかな、と思ってしまう。

誰も傷つけたくないのに、誰かを傷つけなきゃいけないってことは、この世界に産まれた以上避けられないことなんだな、とも感じている。

良心があるかどうかは、自分でもわかる。誰かを傷つけちゃったと自分が感じた後に、私自身の胸はズキッと痛むのだから。悲しいことに、良心があるとわかるのは、人を傷つけちゃった後なんだよね。

同じ過ちを繰り返したくないけれども、でも、例えばボクサーはやっぱり人を殴らなきゃ成り立たないわけだし、文学を扱うためには、人を批判的に見る目を持ち、それについて発信しなきゃ成り立たないわけだ。

人の心を殴れなくなったら、きっと私は文学を扱えなくなるだろうな。

問題は、相手がリングの上でボクシングをしている人間じゃないってこと。
つまり、相手がボクサーなら、自分を殴ってもいいよって、相手は了解している。でも、文学とか、批判的な目線をこういう記事に書くと、不特定多数の人間に伝わって行くわけで・・・。だから、そういう人たちからすれば、自分そんな記事読みたいなんて言ってないよ!っていう人の目にも触れちゃうんだよね。つまり、私はリングの外に出て、いつの間にか観客も殴り始めてるってわけ。口は災いの元。口は情報伝達の元。だから、言い換えれば記事も災いの元になるっていうのは、炎上が起きるとかっていうのと同じで、十分あり得るわけ。

ボクシングは、超具体的・個別的。1人しか傷つけないと決まっている。
だけど、文学は、広く一般的に、共通しているものだから、多くの人を傷つけることがある。

2.自分も結局人を求めている

自分は孤高だとか、独りが好きって思っている。だけど、それは本当の一人を知らないからだろう。人は一人では生きれない。だから、自分はどこかわがままで、自分勝手な所を持っているんだと思う。

例えば私がある人に恋をしていて、その人に嫌われるのがショックなのは、その人に受け入れられることが永久になくなったと感じるから。溶け込みあえなくなったと感じるから。
はるこさんに嫌われた桜木花道のようなものだ。

フォロワーは、自分に心の栄養を与えてくれているんだろうと思う。だから、多くなればなるほどうれしい。逆に、減れば減るほど、自分の心の栄養は少なくなっていくわけで・・・。

でも、むやみやたらに増やそうとは思っていない。自分の記事を好きになってくれる人を求めているわけで・・・。

3.心理障壁を持っている

 エヴァンゲリオンになるけれども、人はそれぞれ精神の玉を持っている。それは水のように変化するもの。そして、仲のいい人はその精神の玉が溶け込みあう。

 逆に、打ち解けられない人とは、精神の玉がはじかれ合う。ATフィールドはその時に生じるもの。私たちは打ち解け合う時に居心地の良さを感じるし、その人のことを好きだと感じている状態。

 私の定義はもっと広いけど、常識でいう性欲は、異性を求める欲望。自分の好きな人と溶け込みあうことが、最も精神的に喜ばしい状態。

 きっと、フォロワーというのが増えれば増えるほど、自分はどこかで、その人達が自分の精神と溶け込みあってくれているんだろうと、どこかで錯覚できているんだと思う。

 精神と精神が衝突するとき、人は不快感を覚える。全ての人が絶対永遠に幸せになるためには、全ての人が一つの精神に溶け込みあうようにならなければいけない。それが人類補完計画の目的。

 でもそれは、人間全員が死ななきゃいけないことを意味する。逆に言えば、人間が生きている以上はそうなることは絶対に不可能なんだ。

私たちはこの世界に産まれてきた。それぞれが別々の人間として。
残念ながら私たちは完全に溶け込みあうことができないんだろう・・・。
溶け込みあっているように見えて、そこには様々な思惑があるのだろう・・・。

 碇シンジは、産まれることを選んだ・・・。そうして世界は再生された。

私も、あなたたちと溶け込みあえない存在かもしれない。あなたたちと衝突するのは、実はとても悲しい。その悲しさを感じたくないがために、シンジのように、この世界に産まれてくることを選べるかどうかはわからないけれど・・・。

 でも、一度でもフォロワーになりたいと思ってくれた人たち。あなたたちのことは忘れはしない。ちょっとの間だったけど、本当にありがとう。


追記

1.私の精神の未熟さがあると自覚するから

自分の欠点を自覚するのは、とても嫌なもの。でも、それは必要な成長痛何だなって思う。全ては自分の師匠だ。自分に必要なことを教えてくれる存在だと思うしかありません。


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