![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/91115086/rectangle_large_type_2_0250ec703a98c6815239d353e2592a33.jpg?width=800)
誕生日に願うこと
私は11月生まれで、もうすぐ一つ年を取る。
この年齢になると、誕生日が平日であれば特にいつもと変わらない仕事の一日になるし、学生時代のように友人の何人に「おめでとう」と言ってもらえるかなんて、ソワソワしたりすることもない。(職場の人の誕生日なんて、教わらなければ知る由もない。)
けれど、パートナーには何かしら期待してしまう自分がいる。
いや、「いた」。
昨年までは。
パートナーも平日は仕事だし、いまは役員(CFO)であるから、私の誕生日に合わせてディナーを予約するほどヒマじゃない。さらに、私も彼も3月期決算の企業に勤めているので、11月は第2四半期の決算説明の業務でそれぞれ多忙な時期だ。
とは言え、昨年までは、誕生日の週の週末くらいは何かサプライズを考えてくれているかな、なんて期待したりして、ある年はちょっと良いランチに連れて行ってくれたこともあったけれど、ある年は誕生日自体を忘れられたこともある(涙)。
だからといって、あまりエスコートが上手過ぎる男性は女性に手慣れているようで私は苦手だし(たまにそうしてくれるのはうれしいけれど)、結局のところ、疎いくらいの男性が私には合っているのだと思う。
好まない誕生日計画だったりプレゼントをもらうくらいなら、自分からリクエストしたり、そもそも欲しいものは自分で買えばいい。
なぜ若い頃は、あれほど “彼” に誕生日を祝ってもらうことに固執していたのだろう。きっと、それが幸せのステータスと勘違いしていたからだ。
昔、それこそ20代、誕生日の翌日には職場の同期に「彼から何もらったの?」と聞かれた。当時付き合っていた彼もブランドに疎い人だったけれど、付き合ううちに慣れたのか(躾けられたのか?)、ブランドもののアクセサリーや時計など、私が欲しがるものを察して買ってくれた。自分で買えないものではなかったけれど、とてもうれしかったし、「彼氏に買ってもらった」ことが女として最高のステータスだと思っていた。
「いいなぁ!」
周りの同僚や友人は、私が彼にプレゼントされたモノを見て、とてもうらやましがった。
いまは——
パートナーとは一緒にごはんを食べられるだけで、いや、一緒にいられるだけでとても満足なのだ。昔の私は、完全に浅はかだったと振り返る。
まぁ、体力があればちょっと遠出して、2人で気分転換できればよいのだけれど、時期的な疲れで週末にそれができなくても、2人でのんびり過ごせればいい。
そう、誕生日は、とにかく穏やかに過ごすことができれば、2人でなくとも、誰に「おめでとう」と言われなくともかまわない。
そう思うのは、今年はもしかしたら自分史上最悪な誕生日になるかもしれないと危惧しているからだ。
私はいま、職場でとてもつらい日々を送っている。端的に言えば、部門長のパワハラと、部員のマウント行為に悩まされている。
彼らの理不尽な言動に、耐えに耐えてきたけれど、数週間前から胸が苦しくなり、呼吸もつらくなり、ついに人事部や産業医に助けを求めた。それを受け、人事部を中心に水面下で動いてくれていて、「夜明けは近いから、もう少しだけ頑張れ」と励まされている。
こんなことに巻き込まれるのは悔しいけれど、いまは自分を守るためには “逃げる” しかない。私を支えてくれる人たちがいるから、まだ生きていられる。
そういった渦中にあるので、私はもう、誕生日にモノなんて要らないのだ。とにかく、穏やかな一日を過ごしたい。
自分の中で望みのハードルがどんどん下がる。
いや、当たり前の毎日というありがたみを忘れかけていただけかもしれない。
そう、世の中は声高に「サステナビリティ」などと謳っているけれど、私も広報担当として、「サステナビリティ経営の推進」という謳い文句を使っているけれど、自身のサステナビリティこそ考えていかねばならないのだ。
「夜明けは近い」を信じて。