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ごめんね、私

意を決して行った社内懇親会のディナーで、貧血になり倒れてしまった。

その懇親会は2カ月も前から予定が組まれていたし、経営層も出席するし、ラグジュアリーホテルのディナービュッフェはWEBサイトでメニューを眺めるだけでも楽しみだった。

——メンタルが、悪化するまでは。

懇親会の前日まで行くか行くまいか迷い、私の状況を知る人事部長も「やめておいたら?」と言ってくれていたけれど、ここは大人らしく大人しく、意を決して予定どおり行くことにした。

こういう時、ホテルまで役員車に乗れるというのは、経営層に近いところで仕事をしている醍醐味だ。車内においてもいつも通りのテンションで、同乗者と積極的な会話に努めた。

会食では、スパークリングワインで乾杯し、皆それぞれにアペタイザーや切り立てのローストビーフ、揚げたての天ぷらなどを取りに行っては堪能していた。役員にお酒をつぐとか、料理を取り分ける必要のないビュッフェ形式を希望して良かったと心から思った。

そして、次は何を食べようかと料理を選んでいる最中、急にめまいと吐き気に襲われたのだ。

レストランスタッフの方に付き添われ、近くにあるソファで横になって数十分が経った頃、なかなか席に戻ってこない私を心配して部長が探しに来てくれた。突然倒れたためスマホも持っておらず、このまま忘れ去られてしまったら…と少し不安になっていたところだったので安堵した。

何とか体調が回復し、席に戻ってしばらくしてから懇親会はお開きになった。役員に「駅まで乗って行きなさい」と、役員車への同乗を勧められたので、最寄りの駅まで送ってもらった。上長らは駅まで歩いて帰るというのに、何だか申し訳ない気持ちだった。

やがて自宅の最寄り駅に着き、昼間よりも冷たくなった空気の中を歩きながら、私は無意識にがんばり過ぎていたのかもしれない自分を愛おしく思った。

頭(理性)では大丈夫だと思っていても、心と身体は正直なのかもしれないと。

ごめんね、私。
無理させてごめん。

そうつぶやいたら、涙腺が緩んだ。

自宅に着くと、郵便ポストに当社の事業報告書(株主通信)が届いていた。社員株主でありながら、広報業務として私が手掛けた事業報告書。
さらに、部屋に入ると、パートナーが仕事帰りに寄って置いていったと見られる、日経新聞の統合報告書アワードの特集紙面がテーブルに広げられてあった。

当社は、今年初めて統合報告書を制作し、日経のアワードにエントリーした。統合報告書も、私が今年手掛けた大きな成果物だ。部のメンバー(部長&総合職男子2人)も制作に関して何も協力しなかったわけではないけれど、インタビュー以外の原稿は私が作成したし、編集作業もほぼ私に任せ切りだったし、彼らはマイルストーンやスケジュール管理さえできていなかった。そのおかげで制作終盤、責任を押し付けられ、私は相当に苦しんだ。

結果的に、制作の7割以上は自分一人で背負ったと思っている。一般職の私が、だ。

部長は、役員や周りの社員に対しては「皆で制作しました」と公言しているけれど。まぁ、体裁上はそうだろう。ただ、ここでは言わせてもらう。

それは嘘だ。

だからこそ、私は苦労の賜物を手にしながら涙がこぼれるのだ。

悔しさではない。
「よくがんばったね」と言ってくれているようなパートナーの計らいと、自分に対する労いの気持ちだ。

私の成果物はもうこれで最後だ。

そう、丸13年、当社の広報業務を主導してきた私は年末で部を脱退する。そして、異動先がこのほどようやく決まった。

私を手放したくない(異動させたくない)執行役員本部長らがいろいろと画策し、人事部長と一悶着あったようだけれど、私の「部長や部のメンバーと距離を置きたい」という要望が優先された。二十数年当社に勤めてきて、初めて私のリクエストが通った。

広報業務は大好きだし、性にも合っていると思って取り組んできたから、いざ異動が決まると淋しさがグッと込み上げてくるけれど、今は “離れることを選ばなければならない” のだ。
そう言い聞かせて、環境が変わりいつかまた広報担当に返り咲く機会を静かに待つ。

辞令は、2023年1月1日付。

12月は、取引先や社内関係者への挨拶やら業務マニュアル作成やら、たくさんやることがある。
それでも、

気負わない。 気負わない。
頑張らない。 頑張らない。

こうして、今年の仕事始めの日に参拝した神社で宣言したことが、今年も残り一カ月になってようやく実現できそうなのも、何だか皮肉な感じがして思わず苦笑い。

自分を大切にしながら満足に生活するというのは、なかなか難しい処世術だ。自分の決断になかなか自信が持てないけれど、苦しみながらも何とかもがいて生き延びようとしているんだということを、神様にはわかってもらいたい。