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小説「中目黒の街角で」 第37話

 一月には僕の誕生日があって、知花が家に来て祝ってくれた。彼女はいつか僕が何気なく新しい財布を探している、と言った言葉を憶えていて黒い二つ折りの財布をプレゼントしてくれた。
 僕がすぐに中身を移そうとすると膨れて「少しは眺めてよ」と言った。僕は「ごめん」と謝りテーブルに置いて財布を眺めた。すると知花が笑いながら僕の背中を叩いた。

「なんか待てって言われた犬みたいだね」
「犬って・・・」
「うそ。おめでとう」
「ありがとう」

 僕は彼女を抱く時に「愛している」と言った。彼女はただ微笑んでいた。
 朝方、帰りのエレベーターでまた知花が「おめでとう」と言ってくれた。僕は彼女を抱きしめて「幸せにする」と言った。すると知花は静かに頷き身体を離した。そして自転車に乗って八幡通りを下っていった。寒い一月のこの朝の幸せを僕は記憶から消すことができない。

 日曜日には心太とも遊び、彼は僕に少しずつ慣れていった。二人を部屋に招いたこともある。その頃には、知花と夫の仲は完全に破綻していて、夫は知花を罵倒するようになっていた。
 三人で公園で遊んだ後、近くでコーヒーを飲んでいると知花が呟いた。

「帰るのめんどくさいな」
「何かあった?」
「うん。ちょっと揉めててね。もう少し遅い時間なら彼も仕事に行くと思うんだけど」
「じゃあ、うちに来る?」
「いやでも、そんな甘えられないし」
「甘えていいんだよ」
「うん・・・じゃあそうさせてもらおうかな」

 心太の好きな機関車トーマスのDVDを借りてピザを頼んだ。ピザが届く前にDVDを見ていた心太が寝てしまうと僕らは静かにビールを飲みながらその寝顔を眺めた。

「可愛いね」
「この子寝相悪いの」
「それは仕方ないさ。誰かに似たんでしょ?」
「もう」
 僕達は心太の寝顔を見ながらキスをした。その帰りに僕は知花に部屋の合い鍵を渡した。
「何かあったら自由に使っていいから」
「ここを使わないでいいように頑張る」
「頑張る必要はないよ。いつでもおいで」
「うん」
 知花が鍵を握りしめたまま僕に抱きついた。心太はベビーカーで幸せそうに眠っていた。

 僕の仕事も順調に進んだ。出戻りだったが、入社してすぐに昇進の話もあった。知花と心太との日々があるおかげで僕にもやっと人並みの責任感が生まれ、今までのように適当に仕事をすることがなくなった事も要因だったのだろう。
 二人との将来を考えることで、僕は初めてやりがいを感じながら仕事に打ち込むことができるようになったのだ。

 しかし春になると知花の店は少しずつ客の入りが良くなり忙しくなっていった。
彼女が妊娠中に離れてしまった客が戻り始め、中目黒の高架下に新しいスポットができたことも影響していた。しかし何よりも目黒川に桜の花が咲き始めたことが大きかった。ピンク色の桜が舞う川沿いには、毎夜カップルや見物客が押し寄せその恩恵を知花の店も受けることとなったのだ。
 もちろん彼女の努力の成果もあっただろう。どんなに大変な日常を過ごしていても、いつも笑顔を絶やさずに対応する彼女に客がつかないはずもなかった。中目黒の老舗で肉の仕入れもしっかりしている焼き鳥店は、やがて毎日のように満席になるほどの賑わいを見せるようになっていった。

「体調は大丈夫?」
 いつもの土曜日の朝方。僕らはワインを飲んだ後に抱き合ってベッドの上にいた。毛布が暑くて二人とも絡まった足だけを少しだけ肌寒い空気に晒していた。
「うん。大丈夫。実は内装の改装費のローンもあって去年は赤字だったの。だから今は頑張らないと」
「でも無理はしないように。毎週会うのも疲れたら休んでいいから」

 僕はただ彼女が心配だった。この頃、知花は僕と会わない日でも本当に朝まで片付けや仕込みをしていることがあった。しかも家に帰れば子供の世話をしなければならない。明らかに僕よりも忙しい毎日を送る彼女の身体がいつか壊れてしまうのではないかと不安だった。

「ありがとう。でも本当に大丈夫だよ。会いたいから会ってるんだし。もちろん疲れたら言うし」
「心太も大きくなるし、どこかでお店を任せられる人を探してもいいかもね」
「それもちょっと考えてはいるけど、今は無理かな」
「どうしても君目当てのお客さんが多いからね」
「そんなことないよ。先代の時のお客さんもいるし」
「あ、いやそう言う意味じゃないよ。もちろん料理も美味しいし」
「わかってる。でも、今はできるところまでやりたいの。せっかくの自分のお店だから」

 お客が彼女についてるのは事実だった。カウンターに一人で来る客は何かしらかの意図を持って店に現れる。その存在が気にならないわけはない。
 ただお客は人に付くものでもある。だとしたら、彼女はずっと忙しいままになってしまう。僕はそれだけは避けたかった。これ以上は彼女に無理をさせたくはないと。いや、それはただの僕のエゴだったのだと思う。結局僕は、彼女の時間を全て占領したかっただけなのだ。

 桜の季節が終わっても知花の店の忙しさは変わらず、むしろ客は増えていった。
早い時間はいつも満席で、止まらないオーダーを捌きながら彼女はせわしなく働いていた。
 そんな彼女の邪魔をしないように、僕はなるべく遅い時間に店に行くようにしていた。少し空いた店内であれば知花と話すことができたから。
 その日も僕は十二時前に彼女の店に向かった。平日で夜を過ごすことはできなくても、知花の顔を見ておきたかったのだ。

「いらっしゃいませ」
 テーブル席には客はいなく、カウンターにそれぞれ一人で飲む男性客が二人座っていた。
「こっちでいい?」
「うん」

 そのうちの一人はいつも座っている端の席にいて、仕方なく違う席に座った。その席では知花と話すことはできなくて、僕はカウンター席の客と話す彼女の姿を眺めていた。
 時間も遅く客もそろそろ帰るだろうと酎ハイを飲みながら今日の出来事を彼女と話す時を待ちわびていた。しかし閉店時間を過ぎても客は帰らず次々と酒を注文した。それなのに知花は嫌な表情を見せずに笑顔で対応していた。
 僕はその光景を眺めながら複雑な気持ちでいた。もちろん注文をしてくれれば売り上げになる。ただ、閉店時間を過ぎてもオーダーをする客とそのオーダーを止めない彼女が理解できなかった。
 客を無下に帰すわけにはいかないのかもしれない。でもそれではいつまでも彼女の仕事が終わらないし、何よりも明らかに下心が見える男性客の態度を認めることができなかった。
 ただ、僕も客として来ていてそんなことを言える立場ではなく歯がゆい気持ちのまま何もできないままでいた。すると、客が知花を口説き始めた。

「ちょっとこのあと飲みに行こうよ」
「それは無理ですね」
 笑顔で彼女はそう言った。
「えーいいじゃん。知花ちゃん可愛いしちょっとだけ」
「ごめんなさい」
「じゃあ、ライン教えてよ」
「名刺お渡ししますね。お店の電話番号書いてあるんで」
「じゃあまた来るから、その時にライン教えてよ」
「考えておきます。あ、ちょっと失礼します」
 裏のキッチンに下がった知花からラインが届いた。
「ごめん。先に出てくれる?大丈夫だから。終わったら連絡する」

 僕は彼女にもっとはっきりと断って欲しかった。そしてできれば、僕のいる前で客を帰して欲しかった。だからその場から立ち去るように言われたことに納得できなかった。帰らせるのはあの客の方ではないかと。
 ただ、自分が居座ってしまっていることも客が帰らない一因であることにも気づいていて、仕方なく店を出て鎗ヶ崎の交差点に向かって歩いた。

 こんな時、自分が普通の恋人だったら。夫だったら。僕は自分の立場の弱さに不甲斐なさと苛立ちを感じていた。そしてその苛立ちは知花にも向けられていた。
 いくら客でも口説いてくるような相手に対して気を使う必要なんてないと。でもそれは僕が自分の不安を押し付けようとしているだけに過ぎなかった。。覚悟して始めた関係性の中の当たり前の規律に耐えることができなかったのだ。

 知花から連絡があったのは夜中の二時を過ぎた頃だった。僕は次の日の仕事も忘れて、ずっと連絡を待っていた。


「さっきはごめん。お客さん帰ったよ」
「大丈夫だった?」
「うん」
 大丈夫だと言われても安心できなくて、僕は彼女を誘った。
「ちょっとこれから飲まない?」
「でも明日、平日だよ。仕事あるでしょ?」
「こっちは大丈夫」
 少しの間に、彼女の戸惑いがうかがえた。でも僕は安心が欲しかった。そして、その安心を得るには彼女の証明が必要だった。だから僕は疲れている知花に会うことを強要した。

「別にいいでしょ?」

「うん・・・じゃあ、一杯だけ」


 待ち合わせた店の近くの小さなバーに入ると、知花はすでにジントニックを飲んでいた。

「お疲れ様」
「さっきはお店でごめんね」
 僕もジントニックを頼んで席に座った。
「あのお客さんは常連さん?」
「うん。まあよく飲んでくれるから」
「そう」
「どうしたの?」
「いや、閉店時間を過ぎたら帰した方がいいんじゃないかなって。いつまでも飲ませてたら店は終わらないし」
 心配しているように装いながら、僕は彼女に自分の希望を伝えた。その一瞬、知花が嫌な表情を浮かべたのに気づいたが見ないふりをした。自分が正しいのだと言い聞かせて。

「でも、お客さんだから」
「君の身体が心配なんだよ」
「うん。わかってる。ありがとう」
 知花はそう言いながらグラスを見つめていた。

 彼女に自分の嫉妬心を見せてしまっていることには気づいていたし、仕事が終わって疲れているのに、こんなことを言うべきではないこともわかっていた。それなのに自分が安心したいがために僕は約束を求めた。ただ信じて、余裕を持って待っていればいいのに。何をやっているんだと自分に言いながらも嫉妬心を抑えられなかった僕は彼女に念押しをした。

「なるべく閉店時間になったら客を帰しなよ」
「うん」

 頷きながら彼女はこの日、再会してから初めて笑顔を見せてくれなかった。


 それでもこの時の僕達は互いの疑念を忘れることができた。まだお互いの気持ちが通じていたから。いや、きっと知花が飲み込んでくれただけなのだろう。結局僕は彼女に対しての要求を抑えることができなかったのだから。

 六月の知花の誕生日の夜。仕事が終わる彼女を僕は家で待っていた。ケーキと花束と、プレゼントとして買ったビンテージのバッグのプレゼントを用意して。
 しかし店が終わったはずの時間になってもラインは送られて来なかった。心配になり電話をかけても出ず、店に行こうかと考えている時にやっとラインが届いた。

「ごめん。遅くなっちゃった。今から行くね」
 僕はマンションのエントランスで彼女を待った。すると珍しくタクシーに乗って知花が現れた。その頬はかなり赤く酔っているのがわかった。
「遅くなってごめん」
「大丈夫?」
「うん。お客さんが誕生日のお酒いっぱい入れてくれたから飲みすぎちゃった。全然帰らないし」
「そう。お疲れ様」
 エレベーターの途中で、知花にキスをせがまレルと、僕は彼女にキスをしてもう一度「お疲れ様」と囁いた。

「シャンパンとかも空いて。なんかキャバ嬢になった気分」
「君は違うでしょ?」
「うん」
 部屋に入って、花束とプレゼントを渡すと知花はいつもの笑顔を浮かべた。
「誕生日に花束なんてもらったことない。バッグもありがとう。使うね」
「気に入ってくれて嬉しいよ」
「こんな夜中なのにいろいろ準備してくれたのに遅くなってごめんね」
「いや、仕事だから仕方ないよ」
 形ばかりだったけど、ケーキのロウソクを消してワインを一口飲んだ。そして僕らは抱き合った。すると行為が終わってすぐに彼女が言った。

「今何時?」
「三時半」
「もうそんな時間?行かなきゃ」

 知花はまだ温もりの残るベッドから出て早々に着替えを始めた。僕はそんな彼女を後ろから抱きしめて言った。

「あんまり無理しないように。お客さんも大事だけど、ちゃんと帰さないと」
「うん。わかってる。」
 知花は頷くと、僕の腕をほどいて着替えを続けた。
「送らないでいいから。そのまま寝てね」
 僕はベッドから彼女を見送った。寂しさと過ごす時間が短くなっていることへの不満と不安を飲み込んで。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。