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小説「鎗ヶ崎の交差点」㉙

 十二月いっぱいをもって会社を退職した。そして僕は一ヶ月間の有休消化に入った。
 退職した感慨や、次の仕事に対する不安はなかった。会社を辞めることは僕にとっては慣れたことだったし、次の職場は以前に勤めていた会社で仕事も人も知っている。
 そんなことよりも僕の心の中は知花への想いが占めていた。年末の彼女の店の最終営業日は二十九日だった。そして三十一日からは相手の実家に行ってしまう。
例えば彼女が向こうの親戚に諭されたら?彼が急に心を入れ変えたと言ったら?確実な関係ではない僕なんてすぐに消えてなくなるだろう。そんな不安ばかりが募った。
 休みに入ってからも僕は知花の店に行き、店終わりの彼女と会い話を聞いた。友人との忘年会の場所として店を使ったりもした。子育てと、うまくいかない家庭に疲れた顔をした彼女に、僕にできることはそれくらいしかなかった。
 二十九日の夜。店の最終日も僕は店に向かった。年が明けて店が始まるまでは会えなくなるだろう。そこまで日数が空くわけではなかったが、僕は知花に会っておきたかった。相手の実家に行く前に自分の存在を焼き付けたかった。
 中目黒の街は地方出身者が多い。年末になれば住んでいる誰もが実家に帰り、街は閑散とする。彼女の店も客はまばらだった。
 僕と知花はカウンターを挟んで話をしていた。心太のこと。友人やその時放映されていたドラマの事。いつも通りに、確信からは離れた会話をしていた。
 その日の営業は十一時までで、そのあとに店の大掃除をすると彼女は言った。
他の客が帰り、僕も帰ろうと会計を済ませた。すると知花が言った。
「ねえ。今日いいワインもらったの。一緒に飲まない?」
「いいよ。でも、お店の掃除あるんだよね」
 すると知花がはにかんだ笑顔を浮かべた。
「うん。だから終わったあとおうち、行っちゃダメ?チーズも買ったし」
 僕は喜びを隠して、どうにか平静をよそおって言った。
「あ。うん。いいよ。じゃあ終わったら連絡して」
「うん」
 僕は急いで家に帰り、部屋の掃除をすませた。しかしその時に冷静さを取り戻した。
 本当にいいのだろうか。子供がいて夫もいる女性を家に招いて・・・その関係の終着点はどこにあるのか。京都に旅行に行って。恋人のような時間をこれだけ過ごしてきたのに、いざとなると僕は情けなくも怖気付いていた。
 気持ちを落ち着かせようと近くのスタバに向かった。時間は深夜一時を回っていて年末ということもあり店内は空いていた。
「いらっしゃいませ」
 笑顔で迎えてくれた女性店員にコーヒーを頼んだ。
「はい。ありがとうございます。今日までお仕事ですか?」
「いや、もう休みで。今日はこれから待ち合わせで」
「そうなんですね。お住いはこの辺ですか?」
「ええ。そうです」
「ではまたいらしてくださいね」
「ありがとう」
 店内の椅子に座り、コーヒーを飲むと少し落ち着きを取り戻せた。そして知花のことを考えた。京都から帰ってきてから、関係の進展のなさにやきもきする事もなかったわけではない。しかし、僕の中の理性はまだ残っていた。
 世間では絶対に許されない関係に陥るかもしれない。ましてや彼女には子供がいるのだ。そんな相手と関係を深めてしまって良いのだろうか。僕は本当に知花と子供の人生を背負って生きていけるのだろうか。
 此の期に及んで情けない葛藤の中にいると知花からラインが届いた。
「終わったよー」
「じゃあ、鎗ヶ崎の交差点まで向かえに行くよ」
 僕はラインを返すと席を立った。さっき話しかけてきた店員に「ありがとうございます」と言われたが振り向く余裕はなかった。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。