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小説「素ナイパー」第7話

「そろそろ俺も、外で仕事をしようと思うんだけど。いや、日本の仕事に飽きたとかじゃなくて、なんか自分の世界をもうちょっと広げたくて・・・」

 新しい女性との出会いを求めているという本心がバレないように考えた口上を言い終えると源次郎と母のサーシャは満面の笑みで喜んだ。
 しかし一時帰国していた父の淳也は狼のように研ぎ澄まされた表情を崩さなかった。

 外での仕事とは、沖田家では海外での仕事を意味する。十八歳で殺し屋としてデビューし着々とキャリアを積んできた直哉に源次郎とサーシャは数年前から海外で仕事をすることを求めていた。
 日本国内で似通った仕事をしているだけではスキルは上がらないということもあったが大きな理由はたった一人で海外の仕事を請け負っている父親の負担軽減と、見入りの多い仕事の受注を増やすのが目的だった。しかし直哉はこれまで家族の要望を断り続けていた。

 語学力や、殺しの技術に不安があるわけではなかった。幼い頃からの英才教育の中には、海外での仕事を見越した語学の勉強も含まれていて母の母国語であるロシア語や英語、フランス語、ドイツ語、その他いくつかの言語はある程度喋れるようになっていた。当然殺しの技術にも疑いの余地はなかった。

 単純に直哉が日本を離れたくなかった理由は洋介や一平と離れる事で自分の出会いの可能性を失くしてしまう事を恐れたからだ。
 週末の飲み会は彼にとっては寂しさを紛らわす唯一の手段だった。海外に拠点を置くと当然そんな機会はなくなる。誰も知り合いがいない本当の孤独の中で仕事をこなしてゆく事に耐えられる自信がなかった。
 しかしはからずも飲み会をしないと言われた事と春風が運んで来た根拠のない期待感が直哉の背中を後押ししていた。

 「どうしたんだ。急に」

 ドラマに出てくるモデル上がりの下手くそな役者のような口先だけの口上を述べると父の淳也が低く威厳のある声で言った。
 その瞳は鋭かった。父は身体に纏わり付く緊張感を家庭の中でも落としたところを見た事がない。

 「急にって言うか、前から考えてたんです。それで、この春を機にやろうと・・・」
 

 オーラを纏った父の視線を受けると直哉は本心を探られるのを恐れ声を静めてしまった。

 「まあまあ。いいじゃないか。とにかく直哉がやる気になってくれたんじゃから」

 すると源次郎が助け舟を出してくれた。しかし「どうだかね。またなんかくだらない理由でなんじゃないの?」と、姉の里香が眉毛を毛抜きで抜きながらちゃちゃを入れてきた。

 「大丈夫よ。最初から一人ではやらせないから。ねえ?」

 しかし母のサーシャからも助け船が出ると、淳也は鋭い視線を直哉に向けたまま頷いた。

 「じゃあさっそく、明後日フランスに発ってもらう」
 「え?」

 直哉は、自分が思っていた以上の展開の速さに瞠目した。

 「来週末が期限の仕事があるのよねー」

 里香はその直哉の反応を楽しむように淳也に問いかけた。すると厳しい表情だった淳也の頬が少し緩んだ。この厳しい父親は娘に少し弱い。

 「もちろん。行きます」

 直哉は仕方なく胸を張り言った。しかし頭の中には洋介や一平と遊べなくなる事への不安と寂しさが急に浮かんできていた。

 明朝朝五時。直哉はフランス、パリ市内のバステイーユという地域の小道に止まる青いプジョーの中にいた。
 この車を選んだのはフランスで最も乗車されていて目立つ事がなく、標的の監視に適しているからだ。

 この地域では土曜の朝は毎週市場が開かれていて普段は人通りが多かったが、この日は平日でヨーロッパ特有の朝靄が静かに街を漂っているだけだった。
 プジョーの止まる場所から数えて2棟目のアパートの3階にある一室。窓際では淳也が近距離射撃用のイギリス製の狙撃銃のスコープを覗いていた。今回の標的はそのアパートの向かいに住んでいる住人だ。

 淳也はもう2時間も中腰のままスコープの中に映る決して大きくはない正方形の向かいのアパートの窓を微動だにせず見つめていた。
 それは淳也が昨日、一昨日と標的を観察して見つけ出したある動作がその人物の習慣である事を裏付けるための行動だった。
 

 人は日常生活の中で自分では気付かないうちにいくつかの動作を癖として繰り返している。
 例えば夜寝る時。風呂に入って歯を磨いて電気を消すという順序で布団に入る習慣を意識的にやっている人間は少ない。しかし日常のリズムの中で無意識に必ず「無意識のルーテイーン」で行動している時間がある。

 淳也は仕事の際、常に標的の癖を読み解く事から始める。「無意識のルーテイーン」の時間を見つける事で狙撃のタイミングが計りやすくなるからだ。
 そして標的のルーテイーンは朝にあることが判明した。夜は仕事の関係で帰宅が不規則で見つけることはできなかった。
 今回の標的は俳優だ。有名な俳優ではない。売れない舞台俳優でマフィアの縄張りで副業として勝手にクスリをさばいていたのがばれてしまうような間抜けな男だ。
 

 直哉達のような一流の殺し屋にとってはこの仕事はとても小さい仕事のように思えるが実はそうでもない。
 一般人を直接殺す事をマフィアは嫌う。同じ業界の人間なら裏社会で生きているためにいなくなったところで誰も気付かないし告発もされにくいのだが一般人がいなくなれば必ず友人やら親族が気付き警察の手が及ぶ。
 現代のマフィアは昔と違い殺しが専門職ではないので後始末なども雑になりがちだ。そうなると足が付きやすくなる。

 そこで殺し屋の出番となる。殺した後の始末などを含めた全体のコンサルテイングの技術も一流の彼らに頼む事で事件にならないように片付けることができる。
 その代わりに直哉達の作業は増えるが報酬も増える。こういった仕事の依頼は直哉達の抱える案件の半数を占めていて大事な収入源なのだ。

 俳優の男はいつものように7時に起床した。淳也は緊張感が途切れない瞳でスコープから覗きながら男のその先の動きを呟き始めた。

 「まずは冷蔵庫のエビアンをボトルのまま飲む。そして洗面所に向かいシャワーを浴びるんだ。そう。次は腰にタオルを巻いたまま寝室に戻り身体全体にクリスチャンデイオールのコロンを吹きかける。特に脇の下に念入りに。そして・・・そう窓を開けるんだ。立て付けの悪い窓を引き上げる。今日は晴れているけど君は昨日のような雨の日でもそうする」

 その通りに男が半分だけ開けた窓の前で大きく腕を開いた。風を浴びてコロンを身体に馴染ませるためだ。
 その瞬間に向かいの窓からすでに照準を合わせていた淳也は、指に軽い力を入れ引き金を引いた。弾の入っていない狙撃銃はカチャと玩具の銃のような乾いた音をたてた。
 3時間ぶりにスコープから目を離すと素早く銃を分解し用意していたチェロ用の黒いケースにしまい込んだ。
 長くスコープを覗いていたせいで淳也の右目の周りには、丸い跡がついていた。足音を立てずに部屋を出て階段を降り、アパートの扉を開けると同時に直哉の乗るプジョーが横付けにされた。
 淳也は瞬時に目線を走らせ周りに誰もいない事を確認すると無駄のない動きで車に乗り込んだ。

 「どう?」

 まだ時差ぼけから完全に抜けていない直哉は少し眠そうな声で淳也に聞いた。

 「ああ。大丈夫だ」
 「そう」

 父の右目の跡を見て直哉はその鋭い瞳とのギャップに笑いそうになってしまったので、それ以上はなにも喋らずに車を走らせた。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。