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小説「中目黒の街角で」 第42話

 また桜の季節がやって来た。
 僕と知花の公表できない関係は一年を過ぎても何も変わらないままだった。ただそれは安定を意味しているわけではなかった。
 

 僕らのような状況下での停滞は後退と同じ意味を持っている。急速に惹かれ合った関係は時の流れとともに冷やされて、意味を無くしてしまうのも速い。
 二人で会う時間は減り僕達は争うことが多くなった。いや、争ってなどいない。なぜなら知花は十年前と同じように僕に何も話さなくなってしまったから。焦り、疑い、エゴを押し付けようとして、いなされることに苛立っていたのは僕一人だった。

「今日はどこ行こうか?」
「ごめん。今日は疲れているの」
「今日、お店行っていいかな?」
「満席で無理なの」
「日曜日は何してる?」
「ごめん。連絡に気づかなかった」

 僕らの予定はかみ合うことがなくなり、会っても確信を避けるような会話ばかりになった。
 彼女の店に友人を連れていき売り上げを落とし、会えばプレゼントを渡して。心太に会えた時は自分の存在を刻もうと全力で遊んだ。
 だけど何も変えようとせず、むしろ心を閉ざしてゆく彼女への苛立ちを抑えきれなくて、店の客にもぞんざいな態度をとった。遅刻をし態度の悪い店員にも立場をわきまえずに怒りをぶつけた。
 そんな時、知花はとても悲しそうに僕を見つめていた。その瞳が僕はとても辛かった。

「別居することになったの」

 でも彼女がそう言った時、僕はやっと事が進展したと喜び、これから先の二人の未来を勝手に描いた。やっと苦労が報われたのだと。

「じゃあ一緒に住もう」

 しかしそう言っても知花は喜ぶことなく、昔のように遠くを見つめたままでいた。

「まだ離婚するわけじゃないし、ちゃんと自分で生活していけるようにならないと」

 彼女の言うことは正論だった。でもまるでこれから先も心太と二人だけで生きて行くことを決めたような口ぶりに不安を感じた。自分がその未来には入っていないのではないかと。
 それでも問い詰めることはできなかった。そんなことをしたらさらに彼女は離れてしまうことはわかっていたから。

「そう。じゃあ、引っ越し祝い何がいい?」
「いらないよ」
「いや、でもせっかくだから」

 僕は知花の新しい部屋に自分の痕跡を残したかった。離れて行こうとしている彼女の生活の中に自分が関わったものを置いて存在を忘れられないようにと。

「じゃあ炊飯器かな」

 知花は店にほど近い山手通り沿いのマンションを見つけて引っ越した。そして僕は彼女の要望通りに炊飯器を送った。

 相変らず彼女の店は繁盛していた。週末は必ず席が埋まっていてそれに連れて知らない男性客も増え、彼女に声をかける姿も度々見かけるようになった。
 僕は不安だった。離婚をしていなくても、別居をした彼女に生まれた自由な時間に他の男が入り込むのではないかと。

 頻繁に会っていた時は店に行っても帰って彼女を待っていたが、この頃には他の男性客が気になって閉店まで店に居座るようにもなった。
 何をしても応えてくれない、待っている自分を気にかけてくれていないと感じると感情を抑えきれなくなってしまった。
 ある日、何気なく彼女が言った一言にも僕は過敏に反応した。

「この前、家の電球切れて、お母さんもとどかなかったから、マサルくんに家に来てもらって電球変えてもらったの」
「へえ」

 嫌な表情を浮かべている自分には気づいていた。マサルというのは店の従業員だ。今思えば、電球ごときで僕を呼ぶこともなかったのだろうし、近くにいたから呼んだだけに過ぎなかったのだろう。

 しかし、僕はそう捉える事ができなかった。まだ自分も行った事ない家になぜ他の男を入れるのかと不快さを露わにした。

「そんなの俺を呼べばいいじゃないか」

 語気が強くなってしまっていたのはわかっていた。全てを受け止めようと、受け止めるのだと何度も自分に言い聞かせた。しかし押し止めようとどんなに試みても、一人の時間に浮かぶ様々な想像の中に生まれる嫉妬に抗うことができなかった。
 もしかしたら店終わりに常連のあの男と。僕と行ったバーの店員と・・・。会う時間がなくなればなくなるほど、その想像は大きくなり、やがてとらわれて抜け出せなくなっていた。まるで十年前と同じように。

 知花がそんな僕に幻滅をしながらも関係を続けたのは、自分の置かれている状況や立場に僕が必死にもがいて合わせようとしているのがわかっていたからだろう。
しかしそれはいわば情だった。もはや僕達の関係は恋愛ではなくなっていた。

 それでもどうにか僕らは持ちこたえ、また知花の店の周年記念の日を迎えた。僕はいつもと同じように閉店時間まで店に残っていた。知花はかなり客に酒を勧められ酔っていて、僕は彼女が心配で送って帰るつもりだった。
 片付けをする知花の背中を見つめながらハイボールを飲んでいると、以前に勤めていた従業員が顔を出した。従業員は山本と言った。店を始めた当初から働いていたがあまりに遅刻が多くクビにした店員だった。
 人柄は良く、僕も店に行けば話をした。しかし他の店員の手前もあり、知花は頭数が少なくなるリスクを飲み込んで辞めさせることにしたのだ。彼女は自分の教育方針が悪かったのではないかと悩んでいた。僕は君に責任はない、と励まし彼女を支えた。
 山本は自分の恋人を連れて現れた。客がはけて行くと僕と知花、そして山本とその恋人が残り自然と飲む流れになった。
 最初は近況を話していただけだったが、いつの間にか山本が当時の自分の荒れた生活を語り始めた。そして知花に頭を下げた。すると彼女はその大きな瞳から涙を流して言った。

「やまちゃんのこと好きだった。大好きだったの」

 僕はその言葉を聞きながら、心を鎮めるのに必死だった。愛していると言っても、好きだと言っても返してくれなかった、待ち侘びていた言葉を知花は涙を流しながら他の男に言ったのだ。
 僕は苛立ちを隠しながら会が終わるのを待った。しかし酔っていた知花がもう一軒行こうと言い出して仕方なく近くのバーに向かった。
 バーでも知花はハイテンションでいつもよりも喋り周りの客にも絡んだりした。周年の営業が終わって気が抜けた事と、山本との再会への喜びがあったのは明白だった。
 そして朝方になってやっと店を出ると、知花は山本の手を握っていた。傍の彼女は酔って座り込んでいた。
 僕は知花の腕を強引にひっぱり、山本に恋人の介抱を指示して通りがかりのタクシーを拾って彼女を乗せた。近い距離だったがこの場から離れるにはそうするしかなかった。

 マンションの前でタクシーを降りると知花が僕の首に腕を回した。
「今日はありがとう」
 酔った知花がキスをせがんだので僕は嫉妬を込めた激しいキスをした。しかし、彼女には何も届いてなかった。次の日の彼女からのラインには「酔って記憶がない」と書かれていた。

 僕は心に染み付いたこの出来事を別れる時まで引きずった。そして、ほとんどこれが僕らの別れの原因になった。その出来事から僕はさらに嫉妬に飲み込まれて行き、彼女を苦しめるようになったのだ。

「明日は心太とここに行こう」
「明日は無理なの」
「なんで?誰とどこ行くの?」

 つれない反応の知花を誘い、断られれば彼女の行動を探る。時には誰かと飲みに行っているのかと店に強引に行く。思い通りにならない関係に僕の苛立ちは止められなくなっていた。

 そんな中で僕と知花は話し合いの時間を設けた。もちろん僕から提案したのだ。僕自身もそんな自分に嫌気がさしていた。本当は彼女は何もしていないとわかっているのに疑い、鎌をかけようとする自分が情けなくて辛かった。
 山本へ告げた「好き」も、ただ従業員としてと言う意味が込められていたことはわかっていた。そのことを知花に伝えたかった。
 そして自分の想いの強さをわかって欲しかった。どれほど愛しているかを。それさえ伝われば、また僕達の関係は元に戻ると信じていた。

 その日、僕は話したいことがある、と知花を家に誘った。しっかりと自分の想いを伝えるには他人がいる店で話すのには抵抗があったから。でも知花は家に来たがらなかった。
 悲しみと苛立ちが募る中で、僕は情けなくも家に来てくれるよう懇願した。「何もしないから」とまるで輩のような言い訳をして。そしてどうにか彼女の了承を得た。
 少し前までは仲良く並んで座っていたソファには彼女一人が座り僕は床に座った。しばらくお互いに無言の時が続く気まずい雰囲気の中で僕が口火を切った。

「最近俺達上手くいってないから話がしたくて」
「うん」
「まずはごめん。最近の俺、うざいよね」
「うざいって言うか、なんて言ったらいいんだろう」
 知花は言葉を探しているようだった。僕を傷つけない言葉を。
「いやそうだと思う。自分でもわかってるから。ごめん」
 

 彼女は押し黙り何も言わなかった。僕は彼女の答えを知りたくて、さらに矢継ぎ早やに言葉を投げた。

「でも少し。俺の気持ちも考えて欲しい。君は旦那との仲が良好になったと言ったけど、そうなると俺は自分の存在がなんなのかわからなくなるよ。君はただ、夫への不満のはけ口が欲しかっただけなのかなって。それに、周年のこともやっぱりね。憶えてないって言われても納得できないんだ」

 こんな女々しいことを言っても何にもならない。そんなことはわかっていた。現に知花は本当に悲しそうな表情を浮かべていた。
 しかし、この時の僕に浮かぶ言葉は知花への批判だけだった。そうすることで、彼女に罪悪感に気づかせ関係を続けようとした。そこに優しさがないと気付かずに。

「悪いとは思っているけど・・・それに、周年のことは覚えていないし。あと山本くん。もう一度うちの店で働いてもらうことになったの。だから会ったら挨拶くらいしてあげて」
 僕はこの時、とても醜い顔をしていたと思う。山本が辞めたあと、代わりに入った店員はすぐにいなくなってしまった。それでは店が回らないと、山本を預かった店の常連の会社の社長に頼み込み戻してもらったそうだ。
 経営的には、それは仕方ないことなのだ。しかし、僕は山本がまた店で働くことに嫌悪感を覚えずにはいられなかった。

「ずっと働いてもらう気?」
「わからない」
「そう。あいつは社会人としてダメだと思うし、早く新しい人を探したほうがいいと思うけど」
 知花はまた何も言わなかった。

 店に山本が戻ってくると僕は大人気なく無視をした。当然、僕が行くと店の雰囲気は悪くなった。それに気づいていながら僕は自分を変えることができなかった。
おそらくこの頃には知花は僕との別れを決めていただろう。勝手に嫉妬して自分の仕事場である店の雰囲気も悪くしてしまうような男と一緒にいようと思うわけがない。
 そんな状態のまま、また僕達は年末年始を迎えた。例年通り知花の店は二十九日まで営業した。
 また夫の実家に行ってしまうのではないか。あるいは、違う誰かと過ごす気かもしれない。僕は先手を打とうと十二月に入るとすぐに知花を誘った。

「年末年始、どこかに行かないかな?心太も連れて」

しかし知花から返って来たのは気の無い返事だった。

「まだ予定わからないから」

 それでも少しは時間をくれると期待をしていた。しかしいつになっても知花は返事を曖昧にして、予定を教えてはくれなかった。僕は苛立ちを募らせて彼女を急かした。

「どこか行けるなら、そろそろ予約したいんだけど」
「まだちょっとわからないかな。もしかしたら向こうに行かないといけないかもしれないし」
「もう行かないでいいんじゃない?」
「うん・・・・」
「わかった。行くなら仕方ないけど、大晦日と元旦くらいは過ごせないかな?心太も一緒に」

 しかし結局、僕らは何の約束もできずに年末を迎えた。間にあったクリスマスにはどうにか会うことができた。二人で近くの居酒屋に行き、僕は知花に花屋の工藤に作ってもらった花束と生まれ年のワインをプレゼントした。知花は僕にフライパンなどのキッチン用品をくれた。僕はこのプレゼントの意味がわからず彼女に聞いた。

「なんでキッチン用品?」
「うん。自炊もした方がいいんじゃないかなって。いつも外食ばかりでしょ?」
「まあ、そうだけど」

 そしてその日も家には来ず「疲れているから」と言って帰って行った。
 そのプレゼントの意味に気付いたのは彼女と別れて、お店に行くこともできず彼女がくれたフライパンを手にした時だった。
 知花はもうその時には僕との別れを決めていたのだ。だから外食ばかりで自炊をしない僕にキッチン用品をくれたのだ。これから一人で生きて行く僕のために。

 「ごめん。年末年始は一緒に過ごせない」

 二十九日に届いたラインはあまりにも遅く、あまりにも悲しいものだった。 僕はラインを受け取ってすぐに電話をかけたが彼女は出てはくれなかった。あまりに苛立った僕は店に向かったがすでにシャッターは閉められていた。

「どこもいけないなら、もっと早く言うべきじゃないかな?それって常識的じゃないよね。大人として。電話も出ないで卑怯だよ」

 この時の僕が頼れたのは、世間の常識と正論だけだった。そしてラインを送った後に訪れたのは自分の失策への後悔だけだった。

 返信が届いたのは七草を過ぎた頃だった。
「話があるの」

 別れ話をされることはわかっていた。僕は自分を抑えることができなかった。知花がそんな僕に失望しているのも理解していた。それでも僕は彼女を諦めたくなかった。やっと出会えた運命の人なのだとこの時でもまだ固く信じていたから。だからこそ全ての過ちを認めようと決めていた。そうすればまたやり直せると。

 待ち合わせは知花の店になった。営業の終わった店に着くと、カウンターの中でまだ知花が掃除をしていた。

「ちょっと待って」

 僕はいつものカウンター席に座った。関係が悪化してから、しばらく店には来ていなかった。店内の炭とタバコの匂いが懐かしくて少し泣きそうになった。すると知花が片付けを終えてカウンターに座る僕の前に立って言った。

「あのね。もう終わりにしよう。私達は違ったんだよ」

 いつも僕を迎えてくれた柔らかい表情とは違う、強い意志を持った表情で彼女はそう言った。
 僕はその表情を見て自分の甘さを悟った。心のどこかで、まだやり直せると思っていた自分がどれだけ愚かだったかを知った。僕は全く可能性を感じさせない彼女の態度に焦り、懇願するように言った。

「そんな事言うなよ。俺は君の一番辛い時にずっとそばにいたし、立場として言ってしまえば不倫だったけど、短い時間の中で君を支えて来たんだ。それに俺達は十年越しにやっと再会できたんだし、育ちも似ているしきっと上手く行くよ。俺の悪いところは全部直すから」

 口から出たのは自分の彼女に対する功績ばかりだった。そんなものしか僕には彼女を説得する材料はなかった。

「感謝はしてるの。でももう無理なの。話し合って解決する問題じゃなくて、もう恋愛じゃなくなったの」

 決定的な言葉を告げられた僕にはもう何も返す言葉がなかった。さらに知花は僕を哀れむように見つめて言った。

「ごめんね」

 僕はいたたまれなくなって店を出た。この日以来、知花に会ってはいない。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。