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小説「中目黒の街角で」 第35話

「私のお父さんとお母さん離婚してるから大家族とか苦手で」
 

 十年ぶりに夜を過ごした日に知花が言った言葉に僕は運命を感じずにはいられなかった。

「僕の家も離婚してるからわかるよ」
「私達、同じ街で同じような家庭で育ったんね。なんか不思議」
「うん」

 僕らはベッドで手を絡ませて、一週間の短い別れをなごり惜しんだ。こんなにも朝が来なければいいのにと願った夜は他に過ごしたことはない。
 知花が夫の実家に行っている間、僕は毎日のように携帯を眺めて過ごした。大晦日も正月も関係なく知花からの連絡を待っていたのだ。そして連絡が届くと昼夜問わず返信をしてなるだけ優しい言葉をかけた。
 知花に様々な想いがあったことは想像に固くない。夫婦関係が上手くいっていなかったとは言え、まだ結婚をしている身で僕と関係を持った。そこに罪悪感がないわけがなかった。そんな中で相手の親や兄弟と会い、何日間も一緒に過ごすのはとても辛いはずだと。

知花からの連絡はいつも周りが寝静まった夜中に届いた。

「今日も疲れた。帰ったら会おうね」
「無理しないように。君は誰よりも頑張っているから」
「ありがとう。早く帰りたい」

 こんなやり取りを毎日しながら僕は知花の帰りを待ちわびていた。
 七草が終わった頃に知花が帰ってくると、すぐに翌日から始まった彼女の店に向かった。

「いらっしゃい」

 その笑顔を見ると数日間の孤独をすぐに忘れる事ができた。

「なんかもう何年も会ってなかったような気がするよ。元気だった?」
「うん、どうにかね。これ。新メニュー作ってみたんだけど食べてみて」

 疲れた表情の彼女をすぐに抱きしめたかったが、店の中でそんなことはできない。僕は彼女が新しく作った鳥のレバーの燻製を口に運びながら気持ちを抑えるのに必死だった。

「へえ。スモークしてるんだ」
「うん。思いつきで作ってみたの。うちのお店、焼き鳥屋だから酎ハイばっかり出るけどワインに合う料理も出したいなって思って」
「なるほど。美味しい。これはきっとワインに合うよ」
「良かった。嬉しいな」

 店内に客はいなく、従業員が外にタバコを吸いに出ると僕は知花に聞いた。

「向こうはどうだったの?」
「大変だった。やっぱり田舎だから親戚もいっぱいいて。その相手もしなくちゃいけなかったし」
「旦那さんとは?」
「いろいろ気は使ってくれたけどね。忙しくてあんまり話してはないかな」
「とにかくお疲れ様。君が無事で戻ってきてくれてよかった」
「そんな、大袈裟だよ」
「いや、俺は俺で不安だったりしたから。君の気持ちが変わってしまわないかなとか」
「大丈夫だよ。あ、ワイン飲もう」
「うん」
 僕達はワインで乾杯をした。
「あらためて、おかえり」
「ただいま。それから明けましておめでとう」
「そっか。まだそれ言ってなかったね」
「今年もよろしく」
「こちらこそ」
「ねえ。有休消化っていつまでなの?」
「あと一週間かな」
 すると知花がいたずらな笑顔を浮かべて言った。
「じゃあ、来週は毎日どっか連れてって」
「え?毎日?」
「迷惑?」
「そんなことないけど、君は大丈夫なの?」
「うん」
 

 それが、年末年始を一緒に過ごせなかった償いなのかあるいは、ただ心からそう思ってくれたのかはわからなかった。ただ、日毎に想いが触れる僕に断る理由はなかった。

「じゃあ一週間分、お店探しとくよ」
「ううん。そんな外ばっかり行こうとしないでいいよ。お家で飲んでるだけでも楽しいから」
「俺も行きたいんだ。君といろんなところに」
「うん。ありがとう」

 それから一週間、僕らは毎日夜を一緒に過ごした。
 月曜日には僕の部屋でワインを飲んだ。店を用意していた僕に「月曜日は暇で早く終われるから」と知花が提案してくれたのだ。
 彼女はわざわざ家にあるバーニャカウダー用のポッドを持って来て「一度使ってみたかったの」と言って嬉しそうに蝋燭に火を灯していた。
 次の日には、二人で六本木のテキーラーバーに行った。酔っ払ってタクシーに乗ると知花が「コーヒー飲みたい」と言ったのでコンビニのコーヒーを二人で分けて飲んだ。
 水曜日には青山にあるラム酒が豊富に揃ったバーに行った。人気のない真夜中の街で甘いラムの香りのする彼女とキスをした時に、僕は知花を離しはしないと心に誓った。
 木曜日は中目黒の彼女の行きつけのバーに行った。店主は年配の夫婦で、知花が店を引き継いだ時からの常連でもあった。

「マスターにはね、お店開く時お世話になって。お肉の仕入れ先との関係づくりとか、お酒の仕入れ先も紹介してもらったりして」
 マスターはまるで父親のような眼差しで知花を見つめて言った。
「そう。知ちゃんは本当に素人だったからね。でもあの頃はどうなるかと思ったけど、よくお店頑張ってるよ」
「まだまだです」

 漫画のワンピースが好きだった店主と僕は好きなキャラクターの話で盛り上がった。彼女の大事な店で店主と親しくなれたことで僕はまた知花が近くなったと感じた。
 知花はその日、安心していたのかかなり飲んで酔っ払っていて中目黒の街で僕に寄りかかってきた。

「今日はこのまま帰ったほうがいい」
「えー」
「そんな連日じゃ疲れちゃうでしょ?君は働いているんだから」
「大丈夫」
 頑固に言う彼女にキスをして「また明日」と言ってタクシーに乗せた。するとすぐにラインが届いた。
「気づかってくれたありがとう。また明日」
 なんでもない「また明日」と言う言葉を噛み締めたのは人生でこの日が初めてだった。
 金曜日は僕の家に彼女がワインを持って来た。今度は僕が生ハムと桃を用意した。映画を見ていたけど二人とも寝てしまい気づいたら朝になっていた。
「もう朝だね」
「うん。帰らなきゃ」
 そう言った彼女にキスをすると知花が僕の身体をか細い指で掴んだ。
「帰りたくない。このままここにいたい」
「わかってる。できれば僕もそうして欲しい。でもまだ、明日もあるから」
 強く抱きしめると、知花は僕の胸に顔を埋めて言った。
「うん。明日ね」
 僕は彼女を愛しさごと抱いた。

 そして僕の休みが終わる最後の日曜日には、初めて彼女の息子に会うことになった。名前は心太。二歳の男の子だった。
 前日の土曜日にベッドで抱き合って名残惜しく空を眺めている時に、息子の話になったのがきっかけだった。

「明日は何をするの?」
 僕が聞くと知花は夜明けの空をつまらなそうに見つめた。
「明日はどうしよう。彼も家にいないし、心太とでかけようかな」
「一緒に行こうか?」
「でも走り回るし大変だよ」
「大丈夫。こう見えても結構走れるから」
 すると少し考えてから知花が言った。
「うん。じゃあ。一緒に遊んであげて」
「きっと可愛いだろうね」
「うん。可愛いの。とっても」
 こうして僕は彼女の息子に会うことになった。

 その日のことは忘れもしない。よく晴れた代々木公園で僕はとても緊張していたのを覚えている。もともと子供に興味を持った事もない自分が一体どんな気持ちになるのか不安だったのだ。
 友人の子供を見ても可愛いと言いながら、その実はそこまで興味はなかった。そんな自分が好きな人の子供だとは言え、他人の子供を可愛いと思えるのだろうか。写真では見ていたが、実際に会ったら彼女の面影がなく違う男の顔をしていたら。
僕と彼女はただ二人だけでの関係でいいのではないか。子供とはもう少し後に会えばよかったのではないか。正直、そんな男らしくない迷いを抱えながら二人を待っていると知花から電話がかかって来た。

「どこにいる?」
「うん。噴水の近くのベンチのとこ」
「あ、見えた。行くね」

 緊張のせいか、いつも人混みの中でもすぐに探し出せる知花をなかなか見つけ出すことができなかった。いやそれは、彼女がいつも夜に会う時とは違う母親の顔をしていたからなのかもしれない。
 やがてベビーカーを押す彼女を見つけた。その日は冬なのに日差しが強く、ベビーカーの日よけは降りていて心太の顔は見えなかった。

「ごめん。遅くなっちゃって」
「いや、大丈夫」

 すると、心太が自ら日よけを押し上げ顔を出した。そして知花にそっくりな笑顔を見せた。僕はその瞬間に恋に落ちた。

「ほら、お名前言って」

 彼女の声は聞こえなかった。僕は自分でも不思議なくらいに自然に心太の頭を撫でていた。

「ねえ。ベビーカーから降ろしてもいい?」
「うん。そこのストッパー外して。でも走り回るよ」

 ストッパーを外すと心太はベビーカーを自ら降りて園内を走り出した。焦って追いかけると自然に僕の手を握った。
 その小ささを、その暖かさを僕は愛してしまった。そして僕達は知花を置いてしばらく二人で遊んだ。
 心太は本当に知花にそっくりだった。しかし僕は顔ばかりを愛したわけではない。その手を握って暖かさと小ささを愛おしいと。守りたいと強く思った。不思議な感覚だった。血が繋がっているかどうかなんて関係なく、僕は心太を自分の子供のように思えたのだ。

「いきなり二人でどっか行ないでよ」
 しばらくして広場にシートを敷いて休んでいると少し膨れて知花が言った。
「だって、可愛くてさ」
「子供、好きなんだっけ?」

 心太と走り回り僕は汗だくだった。持って来たシートに座ってジュースを飲む心太の小さな背中を撫でると彼も僕と同じように汗をかいていた。でも、その手触りに不快感は微塵も感じなかった。

「子供と遊ぶと疲れるでしょ?」
「そんなことないよ」
「ちょっと休んでて。今度は私ね。心太。行こう」

 知花と心太が走り回る光景を眺めながら、安らぎを覚えている自分が不思議だった。今までに結婚をしたいとか、家庭を作りたいなんて考えたこともなかったから。
 自分の親も離婚していて、周りの友人も多くが離婚を経験していた。それを見ていたせいもあって結婚は不利益なものだと考えていた。
 何より僕は夢を追っていた。普通の大人達のように夢を叶えられずに家族を持ち、それを代替えのようにして生きて行くことはしたくなかった。
 しかしこの時僕は自分が間違がった考えを持っていたことを知った。本当に好きな人がそばにいて愛おしいと思える子供がいる。夢を無くしても、その夢よりも大事なものがあれば生きていけるのだと。

 転職したとは言え、いつもと同じように惰性でやろうとしていた仕事にも意味が生まれた気がした。この二人のためにしっかりと働こうと。

 冬の日差しの中で二人を見つめながら、僕は遅く訪れた大人としての決意を胸に刻んでいた。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。