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小説「中目黒の街角で」 第32話

 京都から帰ってきて山崎君から「会おう」と連絡があった時、迷いはなかった。全てを受け入れて抱きしめてくれた彼への想いを止める事は出来なかったから。

 駒沢通り沿いのガードレールに立っている山崎君が見えた時、その安心感に身体を委ねそうになった自分を制する必要があるほど、私は山崎君を求めていた。でもこの街で、中目黒の街で思いのままに振舞うことは許されないと自分を諌めた。

「お疲れ様」
「ねえどこに行くの?」
 すると彼は優しい笑みを浮かべて言った。
「秘密」

 二人でタクシーに乗って街に出た。その間、私達はただ見つめあって笑みを浮かべていた。この瞬間を互いに待ちわびていたことを伝え合うように。
 たどり着いたのは渋谷のホテルだった。驚いている私に山崎君は笑顔で言った。

「ここのバーに連れて来たかったんだ」
「夜中にホテルのバーなんて大人過ぎない?」
「僕たちは大人だよ」

 美しい東京の夜景の見えるバーのカウンターで私達は乾杯した。
京都での夢のような一日が終わった後、現実に戻った私はいつもの生活に馴染めなくなってしまった。もちろん子供は可愛かった。でも夫と同じベッドで寝る事が苦痛でたまらなかった。今すぐにでも山崎君の元に走って、彼の腕の中に飛び込みたくて眠ることさえできなかった。

 でも気持ちを抑えなくてはいけないと自分に言い聞かせてもいた。状況を考えると様々なリスクがあるのはわかっていたから。夫への不満を聞いてもらって山崎君に「無理しないでいいよ」と言われても意地を張る必要があった。
「大丈夫」と答えて少しそっけない表情を浮かべた私に注がれる眼差しに熱いものを感じて、身体が疼いても見ないふりをしなくてはいけなかった。

 それでも彼を失いたくない私は帰り際に「また飲んでくれると嬉しい」と都合の良い頼みごとをした。
 それなのに彼はまた笑顔で頷いてくれた。受け入れてくれた。そんな彼の優しさに溺れかけてエレベーターの中でされたキスにも応えた。溶けそうなキスをしながら手を繋いで。

 そしてその日から私達は毎週末、夜の街に出かけるようになった。お店が終わって朝までの短い時間だったけど、夜中だけ普通のカップルのようにして出歩くようになった。
 私の料理やお酒についての勉強になるようにと、山崎君はいつも素敵なお店を探してくれた。お店のメニューの相談をすればしっかり話を聞いてくれて、私の提案の全てを褒めてくれた。
 彼の好きな映画や音楽を聞いて、彼の好きな世界を知ることで私自身も成長していると思えたし、好きなモノの話をしている彼はとても魅力的だった。
 

 夫とは作る事が出来なかった関係を山崎君と私は夜中の東京の街で育んでいった。いつまでもこの関係が続けばいい。夜中だけでも二人で過ごせればそれでいい。私はそう考えていた。
 心のどこかでは、辛い日常があるからこそこの夜の時間が輝くのだとわかっている節もあったから。限られた時間と制約の中で大切な時間を過ごしているから、私達は上手くいっているのだと。

 ただ、これ以上近づきたくないわけでもなかった。別れ際にはいつも、彼に抱かれたらどれだけ幸せだろうと考えていたし、彼の熱い視線や帰る時の寂しそうな背中にいつまでも見て見ぬ振りをする自信は私にはなかった。
 

 優しさに、女であることへの喜びに溺れていたい。現実の生活が理想と遠くなればなるほど、私は山崎君を求めるようになっていった。それが終わりを引き寄せることになるとも知らずに。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。