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小説「中目黒の街角で」 第36話

 毎週末会って無邪気に笑って。大人らしく夜の街でお酒や食事の話をして抱き合って。結婚も子供も産まずにいたら過ごしていたであろう日々を、山崎君は夜中の東京の街で与えてくれた。

 家に帰りどんなに嫌な思いをしても仕事と子育てて疲れてしまっても、彼との時間の中で女でいられる時間があるだけで幸せだった。山崎君の言うことはなんでも正しいと思えたし、してくれることの全てが嬉しかったし、彼のためならなんでもしようとさえ考えていた。

 でも、そんな時間と引き換えに家庭の状況は悪くなっていった。夫とは毎日のように言い争い、それすらもしなくなると無言になり、息子の泣き声だけが部屋に響くようになった。

 朝方に家に帰らなくてはいけないのは辛くて、夢の世界からわざわざ戻る必要があるのかとさえ思ったこともある。言葉にしなくても、帰り際にもう少しいてほしいと願ってくれる山崎君の表情や抱きしめる強さに負けてしまいそうになる朝もいくつもあった。
 私の行動もどんどん大胆になってお店に友達を連れてきてくれた時には彼女のようにして挨拶をしたし、夜中に手を繋いで中目黒を歩いたこともある。

 お世話になっていたお店にも山崎君を連れて行って、父親がわりのようなマスターと仲良くしてくれている彼の姿を見ると違う未来を描かずにはいれなくて。だから心太にも会ってもらった。

 心太は驚くほどに早く山崎君になついた。二人が笑い合って、代々木公園で手を繋いで歩いている姿を見ていると本当の親子であったならと思わずにはいられなかった。私の周りの大事な人達と自然に、何の苦もなく馴染んでゆく彼に、運命を感じずにはいられなかったし、会う度になんでもっと早く再会できなかったのだろうと人生への後悔も感じた。

 いつか心太に聞いたことがある。この頃、心太は山崎君を「ちっち」と呼ぶようになっていた。言葉を持たない彼なりの親しみを込めた愛称で山崎君もその呼ばれ方を気に入ってくれていた。
 三人で蔦屋へDVDを選びに行き、二人でトイレに入った時に「ちっち。ちっち」と騒ぐ心太に「ちっちのこと好き?」と聞くと「しゅき」と拙い言葉で言ったのだ。
 その時の心太が可愛くて山崎君の愛情が伝わっていることが嬉しくて、どんな困難があろうと彼となら幸せになれるかもしれないと夢を描いた。

 なのに、私たちの関係は距離が縮まり近くなればなるほど上手くいかなくなっていった。
 現実が目の前に訪れた時、少なくとも私は慄いてそして身勝手にもなった。山崎君はもがいて、いろいろなことを変えようとしてくれていたのに応える事が出来なくなってしまった。

 きっと私達は現実など見ずに、ずっと夜の街で過ごしていればよかったのだと思う。そうすればずっと夢から覚めないでいられたのだから。

僕は37歳のサラリーマンです。こらからnoteで小説を投稿していこうと考えています。 小説のテーマは音楽やスポーツや恋愛など様々ですが、自分が育った東京の城南地区(主に東横線や田園都市線沿い) を舞台に、2000年代に青春を過ごした同世代の人達に向けたものを書いていくつもりです。